この詩人は何一つ自分を疑っていない

 「私を弁護してください。主よ。
 私が誠実に歩み、
 よろめくことなく、主に信頼したことを。
 主よ。私を調べ、私を試みてください。
 私の思いと私の心をためしてください。
 あなたの恵みが私の目の前にあり、
 私はあなたの真理のうちを歩み続けました。
 私は、不信実な人とともにすわらず、
 偽善者とともに行きません。
 私は、悪を行なう者の集まりを憎み、
 悪者とともにすわりません。」(詩26:1-5)

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 この詩を乱暴に要約すると、悪いやつがいじめてくるけど俺の方が正しいからお父さんかばってよ、ということになると思う。
 では、ここでいう善悪とは何だろうか。それはとても簡単なことで、自分が正しく敵は悪ということに尽きてしまう。
 詩人が自分を正しいとする根拠は「私が誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼したこと」であり、確かに自分自身にとってはそれで足りる。
 だが、この詩人がより頼んでいる主にとってはどうであろうか。
 「私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。」と主に願うとき、この詩人は何一つ自分を疑っていないのだ。これではあの金持ちの青年と同じではないか。
 ちなみにユング心理学者の河合隼雄さんは、このことをさらに掘り下げて次のように書いている。
 「おのれの心に地獄を見出し得ぬ人は、自ら善人であることを確信し、悪人たちを罰するための地獄をこの世につくることになる。」(「影の現象学」,p.169)

 このような「善人」、もっといえば「すさまじく鈍い善人」が、神の善悪についての律法を見たら、どう思うだろうか。受肉したイエスの山上の説教の解き明かしを聞いたら、どう感じるだろうか。
 これらもまた他人を裁くための道具になってしまう気がするが、自分の中の悪や罪に、気づく人も多いと思う。20年前の自分もそうだった。

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悩み切ろう

 「私に御顔を向け、私をあわれんでください。
  私はただひとりで、悩んでいます。
  私の心の苦しみが大きくなりました。
  どうか、苦悩のうちから私を引き出してください。
  私の悩みと労苦を見て、
  私のすべての罪を赦してください。
  私の敵がどんなに多いかを見てください。
  彼らは暴虐な憎しみで、私を憎んでいます。」(詩25:16-19)

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 憎しみに囲まれて、この歌の作者ダビデ王はうち悩む。
 この悩むということは、孤独な者の特権である。
 悩みとその苦しみを通して自身と対話し御父に祈る。
 この過程を通して自分は内に穿たれる。

 あのヨブは、はじめはやってきた友人たちに訴えるが、やりとりがとんちんかんになってゆく。
 やがて御父との対話が始まる孤独なヨブは、悔い改めに導かれる。
 悩み苦しむとき、心底困ったとき、いつもは楽しい友人知人など、何の手助けもしてくれない。むしろ逆で、遠ざかってしまうのだ。
 悩みを恐れず孤独を忌まず自分自身と向き合うこと、これには実は忍耐力がいる。上のヨブも正にそうだった。
 私たちは自分自身と向き合う忍耐力を御父によって与えられている。悩み切ろう。

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