神とともにいる孤独

 「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。
  人が一日中「おまえの神はどこにいるのか。」と私に言う間。
  私はあの事などを思い起こし、
  御前に私の心を注ぎ出しています。
  私があの群れといっしょに行き巡り、
  喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに
  神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。

  わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。
  御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。
  御顔の救いを。」(詩42:3-5)

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 詩人は絶望している。
 かつては共に宮参りもした人々は、なにかあったのだろうか、今は詩人を責め立てている。
 こういうことは、私も思い当たることがある。
 昔日の楽しい事々が思い出されては、それとは真逆の今の境遇にうち悩むのである。

 詩人は自分に問い、神により頼んでいる。
 このような状態で「私はなおも神をほめたたえる」ことができるのか正直わからないが、孤独にあってもどんなときでも、御父を認めることはできる。
 そして、そのような存在であるところの神を信じている人は、そのような存在と共にいる分、「おまえの神はどこにいるのか」と詩人に罵る人々よりはこの孤独な時を乗り越えやすい。
 では、神を信じるとはどのようなことだろうか。信じると言うだけならあの祭司長たちもそう言っている。
 信じると言うよりは、ヨブのように強引に信じさせらるのであり、救い主が到来してのちは、このイエスが築いた十字架と復活の道のりに引き寄せられて御父と和解に至るのであった。

 さて詩人はこれからどうなるだろうか。
 元の人間関係に戻ることは、あまり期待できないのではないかという気がする。
 しばらく孤独な時を神に支えられて過ごした後、あらたな関係性ができあがってゆくのではないか、そんな気がする。
 孤独なときにどう過ごすかは、とても大切なことだ。個人的には蓄えの時だと思っているが、いずれにせよ神と共にある孤独は耐えやすく、やがて大きな実りをもたらすというのは間違いない。

 これは蛇足なのだが、もし私がこの詩を書くとしたら「私はもう絶望だ!」としか書けないのだが、この詩人は、自分のたましいに「なぜ、おまえは絶望しているのか」と語らせて、自分の絶望感を客体化している。
 そうすると、「絶望だ!」と主観だけで私小説的にやるよりも読み手との距離感ができる分、ああこの詩人は絶望しているのだなと読み手としても受け止めやすい。さすがは詩人。

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 健やかな一日をお祈りします!

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