富とたましい

 「どうして私は、わざわいの日に、
  恐れなければならないのか。
  私を取り囲んで中傷する者の悪意を。
  おのれの財産に信頼する者どもや、
  豊かな富を誇る者どもを。
  人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。
  自分の身のしろ金を神に払うことはできない。
  ――たましいの贖いしろは、高価であり、
  永久にあきらめなくてはならない。――
     …………
  しかし神は私のたましいを
  よみの手から買い戻される。
  神が私を受け入れてくださるからだ。セラ

  恐れるな。人が富を得ても、
  その人の家の栄誉が増し加わっても。
  人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、
  その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。
  彼が生きている間、自分を祝福できても、
  また、あなたが幸いな暮らしをしているために、
  人々があなたをほめたたえても。
  あなたは、自分の先祖の世代に行き、
  彼らは決して光を見ないであろう。
  人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、
  滅びうせる獣に等しい。」(詩49:5-8,15-20)

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 「恐れるな。人が富を得ても」と詩人は綴るが、それにしても、他人の富を、彼とは関係のない自分がなぜ恐れるのだろう。
 もう15年以上前のことになるが、実は自分にもこのような時があった。
 その頃の恐怖感を後から振り返ると、他人の富や成功に対する恐れというよりか、自分の経済上また存在としての失敗というものを、富者を見ることによって意識せざるを得なくなるからだったのではないかという気がする。平たく言うと、富者を見ると自分が惨めになった。
 今の私はお金はなくとも自分の存在を取り戻し(しかも御父によって取り戻し)、彼ら富者を恐れたりうらやましいとは思わなくなった。
 このことは、観念やメソッドや思想ではない。「神は私のたましいをよみの手から買い戻される」か否かに掛かっている。主語は神であり私ではない。これが恵みである。
 このことを言い換えると、人々のたましいはよみにあり、神が恵みによってこのたましいを救ってくださるのである。

 たましいがよみにあること、これはどの人も同じである。
 富者も貧者も変わるところがない。
 ただ、両者の違いとして、富者が自分を省みることは希であるから、たましいのことなど考えないし、当然自分のたましいがよみにあるとか、そういう発想自体ない。
 自分の知り合いで、自分の内面を見るのがすごく恐くて嫌だと言った人がいるが、端的に言って、彼は彼自身を見ないようにごまかしていて、ごまかしつづけるには外に目を向けるしかない。そういう奴の方が、ここでいう富者になりやすいとは思う。
 だが、私はいつも思うに、今際の際に生涯を振り返るとき、億万長者は、今際の際に富者であったことが喜ばしいだろうか。「うーん高層ビル8棟建てれてよかったー」、ばたん(死に伏せる音)、とか、一体あるのだろうか。「ああイエス様に救われて満足だー」、ばたん、という方が自分にはずっと想像しやすい。
 そして、平生より後者のような満足感がしばしば湧き上がることが救われたということであり、確かに「自分の身のしろ金を神に払うことはできない」のだ。

 もうひとつ言えることがある。
 満足感は消失しないのだが、富はなくなる。あっという間になくなる。

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 健やかな一日をお祈りします!

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