イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
神を信じるのか利用するのか
「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。」(出エジプト20:7)
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思うに、人はなぜ主の御名を唱えるのだろう。
神は世界を造り人を造ったので、この神は世界を統御し、人の内面をもお分かりである。
災害は人に神への畏れを生じさせ、悩み多いときには神に祈る。
人が神の御名を唱えることは、ごく自然なことだ。
では、御名を「みだりに」唱えるのはなぜなのか。
これはパリサイ人を見ればよく分かることで、彼らは神の御名の下に好き放題やっていた。
神を信じているというよりも、神の御名を利用していただけであった。
そして、彼らの言動を非難したのが、神の子であるイエスであった。
私たちも、時にこの過ちを犯す。
たとえば、「主をなめるな」などと人に言う。
これは昔自分が言われたことで、口をあんぐりと開けるほかなかったが、まあ、実際にこういう類のことをいう人はいる。「俺をなめるな」と言えばいいのに。
これは、今でいうマウンティング?に御名を利用する形になる。
御名をみだりに唱えるというのは、神を利用しようということである。
御父と人との関係が、もはや逆転してしまっている。
だから、「主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない」のだろう。
しかし、この御父は、人との本来の関係が回復することを願って、それで御子イエスを遣わした。
このイエスの十字架と復活に預かった人は信仰に至り、神を利用しようという発想は元からなくなってしまう。
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健やかな一日をお祈りします!
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思うに、人はなぜ主の御名を唱えるのだろう。
神は世界を造り人を造ったので、この神は世界を統御し、人の内面をもお分かりである。
災害は人に神への畏れを生じさせ、悩み多いときには神に祈る。
人が神の御名を唱えることは、ごく自然なことだ。
では、御名を「みだりに」唱えるのはなぜなのか。
これはパリサイ人を見ればよく分かることで、彼らは神の御名の下に好き放題やっていた。
神を信じているというよりも、神の御名を利用していただけであった。
そして、彼らの言動を非難したのが、神の子であるイエスであった。
私たちも、時にこの過ちを犯す。
たとえば、「主をなめるな」などと人に言う。
これは昔自分が言われたことで、口をあんぐりと開けるほかなかったが、まあ、実際にこういう類のことをいう人はいる。「俺をなめるな」と言えばいいのに。
これは、今でいうマウンティング?に御名を利用する形になる。
御名をみだりに唱えるというのは、神を利用しようということである。
御父と人との関係が、もはや逆転してしまっている。
だから、「主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない」のだろう。
しかし、この御父は、人との本来の関係が回復することを願って、それで御子イエスを遣わした。
このイエスの十字架と復活に預かった人は信仰に至り、神を利用しようという発想は元からなくなってしまう。
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