他人のちり

 「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
 偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7:3-5)

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 聖書とは何か。
 あえて短くまとめると、個人の魂を救済する書物となる。
 十字架のイエスを仲介者として、神と人との関係の回復を図ろうとする。

 この山上の説教は、どの人であれ、自身が罪人であることに気付かせるためになされている。
 そして、私たちのその罪深さを身代わりになって処分したのがイエスの十字架の業であり、その業が神に良しとされてイエスは復活した。

 私たち個人個人は、イエスが切り開いたこの狭き道に、たった一人で入らされる必要がある。
 自分で入るのではない。入らされる。
 この道を通り抜けて神に良しとされたとき、神-イエス-私という和解の関係ができあがる。

 この救いそれ自体は、他人も兄弟もない。すべてが個人の問題に帰結する。
 だから、他人の目のちりを云々する前に、私の罪(丸太)に気付くことが遙かに大切だ。
 第一、他人のちりは、自分の救いには関係ないのだ。
 そして他人の目のちりは彼自身が気付いて罪を認めるためにあるのだから、私が彼のちりを指摘するのは、ここでは要らぬおせっかいというか、それ以上に邪魔をしているだけになってしまう。

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[一版]2013年11月 4日
[二版]2018年 2月12日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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