信仰と行ないについて

 「そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
……
 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」(マタイ25:34-40より抜粋)

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 善をなそうと思って行うときには、既に偽善に陥っている。
 天に行きたいからというので善をなそうというのであれば、むしろそれは悪だろう。
 天に行きたいから病人を見舞うとき、その人の気持ちは病人に向くのか、天に向くのか。
 どちらでもない。自分自身に向いている。
 自分についてのそろばん勘定をしているだけだ。

 一方で、「正しい人たち」は、善をなしたという自覚がない。
 それはいつもの営みにすぎないのである。
 食べさせ飲ませ、ということは、そうしようと思ってやっていて、相手に気持ちが向いている。

 両者は何が違うのだろう。
 信仰の有無の違いである。
 信仰というのは、イエス・キリストから与えられるもので、あるか、ないかのどちらかしかない。サウロ(パウロ)がわかりやすい。
 なので、信仰の成長という概念は、ない。信仰が強い(弱い)、という概念も、ない。
 イエスとの出会いという恵み、これが信仰のすべてである。
 そろばん勘定ばかりしている人が、どうしてイエスと出会えるだろうか。
 だが、そのような者であっても、律法によって罪に気づきもんどり打つさなかイエスと出会ったならば救われて、もはや、そろばんずくで行動することは全くなくなる。
 律法が養育係なのは、確かにそうなのだ。

 行動をすることが信仰なのではない。
 信仰によって行動が変わるのである。

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