イエスの道筋を共にする覚悟

 「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。」(1ペテロ4:1)

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 救いについて。

 罪のない神の子イエス・キリストは、自ら極刑の十字架に苦しみ肉を殺し、そして三日目に復活した。
 このわざによって、イエスは救いの道を拓き、救いの型を示した。
 私たちのような罪深い者であっても、イエスの道筋をたどることによって、罪のない者と認められて、解放され救われる。
 ただ、この狭い道に、どうやれば入ることができるのだろうか。
 気付くとすとんと入っている。それこそが恵みなのである。
 イエスと同じ苦しみを味わい続け、それは極限に達し、そして生まれ変わる。

 心構えも武装もいらない。それでは、救われたくないという意思表示になってしまう。
(ペテロはギリシャ語がほとんどできなかったと聴いたことがあるので、そのことが関係しているかもしれない。)
 むしろ、必要なのはある種の覚悟だろう。
 イエスの道筋を歩むこと、イエスの杯を飲むことは、今までも今後もないほどの苦しみを通り抜けることなので、この、イエスと共に死ぬ覚悟は必要だろう。
 だから、フォークソング片手に「イエスは王」と歌っているのには、個人的には大きな違和感を覚える。

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