ナタナエルはナタナエルだから目を掛けられたのか

 「ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。
 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」
 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」(ヨハネ1:44-49)

---

 ここでもピリポやナタナエルが早合点をしているが、それは措く。

 ピリポがイエスをナタナエルに紹介する。
 しかし、イエスはそれより前から、ナタナエルがいちじくの木の下にいたのを見ていた。
 他の多くの人々も、そこにはいただろう。
 だが、イエスの目にとまったのはナタナエルなのである。
 それは、ナタナエルがなにがしかの点でひとかどの人物だというよりは、イエスの目にたまたまナタナエルが目に入ったにすぎない。
 他の誰かがイエスの目にとまったとしても、全くおかしくはない。たまたまなのだ。

 私たちについても、そのことがあてはまる。
 私たちが復活のイエスに見いだされるとすれば、私たちの行ない、人格または立派さなどによってではない。
 もし、そのような観点で見いだされるのであれば、救われる人はきわめて希であろうし、また、そうした人を個人的に救えばよいのであれば、十字架と復活という救世主としてのわざをなす必要もなかったろう。
 私たちが復活のイエスに見いだされるとすれば、もっぱら恵みによってである。
 いいかえると、復活のイエスにたまたま目に入った人が救われる。
 私たちがやることは、行ないではなく、求め続けることである。「たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)は、確かな約束なのである。
 この復活のイエスは、救いを求めるすべての人に目を掛けてくださっている。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )