備え

 「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。
 しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
 だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。
 主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。
 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。
 まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。」(マタイ24:42-47)

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 「その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。」というのは、創世記でヨセフがファラオから総理大臣に任ぜられたような権限委譲の類を言うよりは、主人からほんとうに大切なものを預かった、というニュアンスだろう。
 ほんとうに大切なものというのは、「いのち」ではないか。
(そう解さないと、偉くなることが大事なことになってしまう。)

 復活のイエスは、あるときその人のところにやってくる。
 いつ来るのかは、全く分からない。
 そのときその人に備えが出来ているならば、復活のイエスがその人と出会って「いのち」を下さる。
 逆に、飲んだり食べたりしていて(49節)備えがないと、門の外側から戸を叩くイエスとしても(黙3:20)、どうにもやりようがない。
 だから、目を覚ましていること、備えていることは、アダムの肉から解放される上で非常に大切なことだ。

 もし、絶えず善行をし続けよということが備えなのであれば、山上の説教でイエスが語ったことと相反してしまう。
 人間のこのアダムの肉には善行をするだけのものはない。
 そのアダムの肉から解放されたいのに、逆にアダムの肉によって善行するというのはそもそも無理があるのではないか。
 第一、何に照らしての善なのか。

 だから備えとは、律法に照らして自分が罪人であることに気付いていること、そしてそこから救われたいとキリスト・イエスを待ち続けていること、いつでも戸を開ける準備の出来ていることではないだろうか。

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