御霊による心の割礼

 「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」(ローマ2:28-29)

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 断っておくと、ユダヤ人とか割礼というものは2000年前固有の問題であり、今に至る普遍的なものではない。
 それでも上の聖書箇所を取り上げるのは、「文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼」だからだ。

 信仰とは、身に割礼を施そうとか、文字(律法)を守ろうと、自分で信じ行う類のものではない。
 「御霊による、心の割礼」、すなわち、神から与えられて、有無をも言わさず信じさせられるのが信仰だ。
 大切なのは、この心の割礼である。
 だが、この心の割礼は、文字には依らず、御霊による。
 すなわち、人間の行いや努力によって得られるものではなく、神の主権によっていただくものであり、これを恵みという。

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