山上の説教のなぐさめ

 「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをお直しになった。こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。」(マタイ4:23-25)

 「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ6:31-34)

---

 このごろ、山上の説教を読んでは思いめぐらし眠りに就く、そのような晩が多くなった。
 人によっては、僕のこの「睡眠儀式」を「デボーション」、それも「デボーションの邪推な方式」と呼ぶかも知れない。
 なんとでもいわせておけばよろしい。
 私は、「デボーション」なぞという語句は、シュレッダーに掛けてしまった。

 さて、ゆうべは、上のマタイ6:31-34を何度も繰り返して読みふけっていた。
 「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」という「心配」について。

 日本は先進国、飽食の国とのこと。今のところは。
 ステーキ食べよか、しゃぶしゃぶにしよか?
 ビール、発泡酒、「第三のビール」。
 クールビズ、最近はどうやらベージュが流行りの模様。

 今、僕が読んでいる「悩み」は、どうも、そのような「悩み」の類ではなさそうだ。
 そう考えて、この「山上の説教」の「前振り」に目を通すことに。
 「山上の説教」の聴衆は、病人、クソ貧しい人、カケラでも希望が欲しい人。
 そういう人々が、あちらこちらから集まってきた。
 メシ、ニアリーイコール、パン、それも明日のパンすらあるかどうか。
 パレスチナという地は水が貴重なので、飲み水自体の確保、あとは代替物としてのワイン。

 そうすると、上の「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」という「心配」に関して、現代飽食日本に山上の説教をそのまま「適用解釈」するのは、明らかな誤り。
 しかし、それにしても、心配のない世の中や人生というものは、およそあり得ないではないか。

 「心配」が東に在るなら、西の地平線には「神の国とその義」が見えるではないか。
 ならば、西を向いて歩めばよい。
 東の「心配それ自体」がなくなるかどうかは、どうでもよい。
 西に向かって歩む、歩み続ける、その地平線が見えているかどうか。
 それだけでも随分と「こころもちが違う」ように思える。

 ややして今度は「その義」について、思いめぐらす。
 「神の国」だけなら、分かりはいい。
 「と、その義」。
 ……やっぱ、ペアだよね、天国と「正義」とは。
 「労苦」、それこそが、「西行きの切符」。

 そう思い至り、スタンドのスイッチを消して眠りに就きました。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 「山上の説教... 山上の説教よ... »