goo blog サービス終了のお知らせ 

恵みと行ない

 「さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
 その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。
 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。」(ヨハネ5:2-9)

---

 38年も病気が癒えない人にイエスが出会う。
 イエスは彼に言う。「よくなりたいか」。
 ところが、彼が言うには「私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません」と、頓珍漢だ。
 彼からすれば、誰か知らないがともかく自分に話しかけてくれる人がいて、それで、日頃の思いの丈をとにかくぶっつけたのだろう。実は自分にも似た経験がある。

 それにしても、このベテスダの池には「大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた」。
 イエスはこの大ぜいの人々の中で、上の38年病をかこつ人に声を掛けた。
 ほかの人々ではなく、この38年の人にイエスが会ったのはなぜだろう。
 たとえば、この人が熱心に祈っていたとか、日々ちょっとした善行を行っていたとか、そのような、人の目から見て好ましい何かがあっただろうか。
 そういうことではなく、大ぜいの病人がいる中、イエスはこの38年の人に会ったということだ。
 理由はない。少なくとも、人目に見て分かるような理由はない。
 この理由がないというのが恵みであり、38年の人はまさに恵まれたのである。
 仮に、熱心に祈っていたというのでイエスが声を掛けたのならば、それは行ないに基づく因果関係である。人の目にはわかりがいいが、不思議なことに神はこの因果関係を気にも留めない。

 恵みと行ないとの違いについてやや極端に書いたが、頓珍漢なことを言い返すほど行き詰まっているこの人を、神の子イエスは予め知っていたのかもしれない。

---

[一版]2020年 7月22日
[三版]2025年 6月22日

 イエス様の平安がありますように!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 霊とまことに... 生きた死人が... »