律法によって

 「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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 3年ぶりだろうか、ガラテヤ書を読んだ。
 あーあったなーこんなの、そう思いつつ読み終える。

 上の箇所は、風見鶏ペテロをパウロが非難している口上の中より。
 「神に生きるために、律法によって律法に死にました」。
 律法によって死を宣告される。
 そして神に生きるようになる。
 律法は確かにあるのだが、もう縛られてはいない。
 ただ、十字架が自分に張り付いている。
 この十字架が自分のためのイエスの死だと信じること、これが信仰だ。
 律法の諸規定を遵守することが信仰であった時代は、十字架がピリオドを打った。

 今までのロマ書と、軌跡が変わらない。
 著者が同じだからだろうか。
 「聖書だから」だと思う。
 「キリストが私のうちに生きておられる」は、ロマ書では「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる」(6:8)に相当する。

 とまれ、律法が、死を宣告する。
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