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ドュケルスキーの謎

2009-02-20 | プロコ日記裏話
プロコフィエフ短編集の入稿も大詰め。資料として掲載するため
日本滞在日記を読み返していたら、あれこれ疑問が噴出してきた。
なにしろ4、5年前に訳したものなので、今読むとツメが甘い。
なかでも気になりつつも放置されていたのが、
「ドゥケルスキーは日本にいる」というプロコの一言。
ドゥケルスキー=作曲家ヴァーノン・デュークの本名、と
S先生に言われるままに注をつけておいたのだが、ほんとかいな。
なぜなら彼は1903年生まれで、プロコが上記を記した1918年には
まだ15歳だし、彼が一家で国外に逃れたのは1919年のこと。
仮に本当に日本にいたことがあったとしたら、事実確認が必要である。

…といったようなことをS先生にお伝えすると、表情険しく
「ドゥケルスキーの足跡を調査し始めたら大変なことになるわよ!
プロコフィエフがそう書いてるんだから、そのままでいいじゃない。
彼の勘違いかもしれないし、あるいは日記を編纂した息子が
書き写すときに名前を間違えたのかもしれないわね」
なるほど。プロコは子音だけで日記を書いていたので、同じような
子音から構成される別の姓である可能性もあるという。
じゃあとにかく注は外しましょう、と提案すると
「そうよ、ヴァーノン・デュークであるはずがないわ!
15歳で日本に来て何すんのよ!」
ですからー、さっきからそう言ってるんですけど。
と、ここで先生、「そのコピー、もらってもいいかしら」と
ロシア語ウィキペディアのドゥケルスキーの頁を指差す。
そこに添付された彼の写真を見て、「いい男ねー!」ですと。

さらに、プロコがウラジオストクの港で目にした警備艇「朝日」を
「戦艦」とすべきか「軍艦」とすべきか、とか
「エシポ“ワ”」と「ルマノ“ヴァ”」が混在してると気になるので
「ルマノワ」の表記に統一すべきではないか、とか
数字はすべて漢数字に変更し、訳注の入れ方も要統一、とか
表記上の極めて日本的な重箱の隅つつきに露骨にうんざりするS先生。

ようやく日記の確認を終えたら、今度は「あとがき」の打ち合わせ。
先生が用意してきた一大論文を前にして、Uさんとともに唸る。
「うーん、これは本のあとがきの内容じゃないですなー。
これは研究論文として発表されたらいかがです?」とUさん。
「そんなのとっくに発表しました!
あとはお任せしますから、お好きなように!」
晴れやかな笑顔と、ここからが肝要な入稿・校正作業を残し、
S先生はモスクワに帰ってしまわれたのであった。
え~ん、なんでいつもそうなるの~!?
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2 Comments

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ドゥケルスキー? (沼辺信一)
2009-02-21 02:09:22
ここで言及されるドゥケルスキーはヴラジーミル・ドゥケルスキー(ヴァーノン・デューク)とは別人と推察します。1918年当時、キエフ音楽院在学中の彼が、単身であれ、家族と一緒であれ、日本に滞在している可能性はきわめて低いと思われます。内戦下の混乱下で国外脱出の機を窺っていて、翌19年には辛くもコンスタンティノープルに逃れることになるドゥケルスキー一家が、その前年にどんな事情であれ日本にいたとは考えにくいですから。
ちなみに昨年刊行されたAnthony Phillips訳編 "Diaries 1915-1923" 英語版の当該個所の脚注(p.282)で、このドゥケルスキーがヴァーノン・デュークであるかのように註記していますが、根拠となる事実は明示されておらず、小生はおそらく事実誤認であろうと睨んでいます。この件について、ぜひPhillips氏に照会されることをお勧めします(とても誠実そうな御仁でしたよ)。
いずれにせよ、「日本滞在日記」の日本語訳を公刊なさるのなら、細部への目配りは絶対に不可欠です。この作業は決して「日本的な重箱の隅つつき」ではありません。万国共通どこの国の研究者もこれを避けては通れません。どうか後顧の憂いなきよう、細心の注意を払っていただきますようお願い申し上げます。
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ご指導ありがとうございます! (kot)
2009-02-21 23:43:08
沼辺さま、お久しぶりです。ご指摘ご助言ならびに身の引き締まるプレッシャー(??)をありがとうございます。ただいま固有名詞をひとつずつツブシにかかっているところですが、私もこのドゥケルスキーはどう考えても別人のように思います。

ヴァーノン・デューク説は『音楽の友』にも寄稿していらしたヤクボフ先生の助言によるもののようですが、本当に彼が日本にいたのなら、プロコフィエフは来日時に会っているはずですよね。また別人であったとしても、この名が肝心の日本滞在中に一度も登場しないのは不思議な気がします。少なくとも日記によれば、プロコフィエフが日本で(用事があって)会いに行った(=「日本にいる」ことを事前に知っていた)ロシア人はひとりしかいません。これはいったい・・・???

そういえば唐突ながら、いつぞやは「日本とユーラシア」でプロコフィエフ日本滞在日記ブログをご紹介いただき、ありがとうございました。御礼の機会を逸しておりまして大変失礼いたしました。記事も興味深くまた楽しく拝読いたしました。あの寄せ書きの扇は今も現物が残っているのでしょうか?
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