サムイズダート・ロシア

めざせロシア式菜園生活!ダーチャごっことロシア&北海道のお話あれこれ

ヴォロネジ子供美術学校

2007-05-31 | ロシア取材2007
子供音楽グループ『ヴァルシェブニキ(魔法使いたち』に会う前に、
ヴォロネジでひとつしておくことがあった。
それは、S先生が紹介してくれたヴァレリーさんと会うことだ。

ヴァレリーさん(男性です)は、「子供美術学校」に勤務し、
子供たちに日本語を教えてる。ヴォロネジを訪問する日本人は珍しく、
子供たちに〝ホンモノの日本語〟と触れさせたいので
できれば5月8日18時からの日本語教室に来てほしい、
と前から言われていたのだが、その時間は『ヴァルシェブニキ』との
インタビューがあるので、急遽その日の朝、学校を訪ねることにした。



市中心部にある「子供美術学校」は、40年以上前に創立。
国立でありながら授業料を払うかわりに、4年間で
絵画、彫刻など美術全般を集中的に学ぶ。いわゆる英才教育である。
5歳~10歳の初級クラスを2年、11歳~14歳の上級クラスを2年。
午前中は8時30分から12時まで、午後は3時から9時まで。
夜の部は大人も一緒に学べるのが、この学校の一番の特色だ。

校長、副校長以下、先生方総出で校内を案内してくださる。
教室を一巡した印象では、ここでは基礎の基礎を徹底して教え、
そのうえで生徒たちの独創性をのばす教育を施しているもよう。
基礎を決しておろそかにしないのは、ロシアの常だ。

さて、ここへ来た真の目的は、日本語交流。
日本語を学ぶナターシャちゃんが、日本語でご挨拶。
ナマの日本語に触れていないので、ちょっぴり硬い感じだが、
正統派のきれいな日本語だ。同行のママは数学の先生だそう。
ヴァレリーさんのクラスでは、日本の童謡を題材にして、
子供たちに自由に絵を描かせるという試みを実施。
何枚か絵を見せていただいたが、日本と中国のイメージが
ごっちゃになっていたり、赤い靴はいてる着物姿の女の子が、
Tシャツにジーンズの異人さんに連れられて
アメリカ行きの船に乗ってっちゃったり(笑)。


うーん、ちょっと違うな~、と思いながらも
ロシアの子供たちの日本に対するイメージが垣間見えて面白い。
なによりも、語学と歌と絵画を結びつけて学ばせる、
という指導する側の発想に感心させられたものであった。
(ほかにも傑作絵画が目白押し!またの機会に…)

ビムのいる町

2007-05-27 | ロシア取材2007
ヴィタリーさんが予約してくれたホテル「ロシア」のすぐ近く、
革命大通り沿いの人形劇場の前に、ビムの銅像はあった。
二度と会うことのかなわなかった、大好きなおじいちゃんを
ずっとずっと探し続けていたビム……。

ヴォロネジ情報を求めてネットを彷徨っていたときに、
初めてこの町に『黒い耳の白い犬ビム』の銅像があることを知った。
映画にもなった忠犬物語の作者ガブリエル・トロエポリスキーが
ヴォロネジ出身なのだという。
なんの情報もなく、イメージもわかなかった町ヴォロネジが、
それを知ったとたん、とても懐かしい場所に思えた。
もし犬を飼うことがあったとしたら、きっと「ビム」と名づけよう
とウン十年思い続けてきたそのビムがいる町だったのだから……。


町の基礎を築いたピョートルⅠ世。
彼の命により、ここにロシア初の
造船所が建てられたのが1696年。


町のなかにそびえる聖母受胎告知聖堂。


町を二分する大河のような人工貯水池。


一面のたんぽぽ畑。おとぎの町ヴォロネジ…。

サーブ2000

2007-05-26 | ロシア取材2007
ヴォロネジの民間航空会社パリョート!
これを利用するのを楽しみにしてた。
飛行機の種類はなんだろう?小型機ならヤコブレフ?
ニェット!「S2000」こと「サーブ2000」という機種だった。

スウェーデンの航空機&自動車メーカーSAABの6枚羽根プロペラ機!
右2席左1席×17列の全50人乗り。めちゃめちゃ可愛い!!
機内サービスのドリンクは、コーカサス随一の
ガス入りミネラルウォーター「ナルザン」のミニペットボトル。
機内で配られるキャンディの包み紙はパリョートのロゴ入り。



なにもかもが可愛くて、
夢の町ヴォロネジへの序曲にふさわしかった。
モスクワからヴォロネジまで、約1時間の空の旅。

ドモジェドヴォ空港

2007-05-25 | ロシア取材2007
シェレメチェヴォ、ドモジェドヴォ、ヴヌコヴォ、ブイコヴォ。
モスクワ郊外には4つの空港がある。
従来は、日本便も発着する北のシェレメチェヴォ空港が
モスクワの顔たる国際空港とされてきたが、
今や欧州便の多くが南のドモジェドヴォ空港に移りつつあるとか。
ヴォロネジ行きの飛行機も、ここから出る。

ドモジェドヴォといえば、ソ連時代末期に訪ねたときの
ガラっぱちで小汚い印象があまりに強かったので、
とても同じ空港とは思えなかった。
なんときれいで表示もわかりやすいこと!
レストラン&ショップのフロアなど、パリの空港みたいである。
ロシアらしいおとぼけといえば、「世界のマトリョーシカ」を
テーマに飾られていた各国仕様の巨大マトリョーシカ。
(といってもビニールを膨らませただけだが)
上の写真はその日本ヴァージョン。
ゲイシャ風情にボサっとかぶせただけのカツラが笑える。

ときに「国内線でも2時間前には空港入りするように」と
いろいろな人から言われていたのだが、肝心のチェックインは
搭乗40分前にならないと始まらない。
なので、それまでは手持ち無沙汰だ。
ところがそのあと、いきなりあわただしくなる。
南方に発つ便が集中し、自爆テロのあったこの空港では、
セキュリティ・チェックが異常に厳しく
ゲートにたどりつくまでに何度もパスポートをチェックされる。
すぐ目の前で、イスラム系の男性たちが別室に連行されてしまい、
残された同胞たちは目が泳ぎまくって泣きそうである。

手荷物検査がまた、徹底して厳しい。
機内持込荷物にもシールを貼られるし、
靴は靴用のカゴ、コートなどは衣類用のカゴに入れ、
手荷物とともにX線を通す。人間本体も前後左右からおさわりチェック。
その間、乗客たちはずっと靴を脱いだままなので、
用意された青いビニールの足カバーをはいて、
小奇麗な空間をペタペタ歩く。
滑稽な光景だが、みんな必死だ。
なにせX線にちょっとでも不審な影が映れば、容赦なく止められ、
「これはなんだ?」と尋問される。
「カメラです」と答えれば、カメラを取り出して
再度手荷物をX線にかけろと言われる。それでも影が映れば、
手荷物の奥の奥までひっくり返され、「これはなんだ?」の繰り返し。
同行のOさんはこれを3度やられたあげく、
緑色に怪しく光る“不審物”の正体は、ホッカイロと判明(笑)。
ちなみにまったく同じ手荷物を持っていても、
シェレメチェヴォではスルーである。

ヴィタリーさんへの道Ⅳ

2007-05-24 | ヴァルシェブニキ・ドヴァラ
《その4・結》大展開!!

5月5日
不安材料を抱えたままモスクワ入り。
ヴィタリーさんはたぶんまだドイツだろう。
7日に彼もやはりモスクワに来るらしいが、
会うのはヴォロネジと決めている。

5月6日
モスクワ在住のS.Rさんにヴィタリーさんの携帯に電話してもらう。
が、つながらないので、いざガルブシュキン・ドヴォル見学へ。
ここで彼らのCDを発見し、さらに彼らがコンサートを開いた
モバイル・プラザを見つけて能天気に舞い上がっていたところ、
ロシア時刻16時53分に着信あり。しまった、ヴィタリーさんだ!
その日は遅くまでアルバートで遊んでしまったので、
返信しそこねたまま就寝。

5月7日
朝、ホテルの部屋で深呼吸しながらスタンバイ。
早すぎると悪いので、赤の広場まで行って帰って、頃合を見計らって
10時半をまわったところでヴィタリーさんに電話す。
が、またもつながらない。このまま黒やぎさんと白やぎさんか!?
と思ったそのとき、携帯が鳴る。10時46分。
ネット配信のニュースで何度も聞いたことのある「あの声」と
ついに直接話す! 現地での詳しい日程を聞こうとしたが、
「今夜、空港に迎えに行くから!」というばかりで、
電波も悪くて会話が進まず。
「あとでロシア語堪能な友人に電話してもらいます!」
「ハラショー、待ってるよ」
は~、脱力。とにもかくにも初接触に成功!!

午後、S.Rさんのオフィスを訪ね、ネイティブの美しいロシア語で
ヴィタリーさんに連絡してもらう。15時12分。
ここでも彼は、迎えにいくから大丈夫、みたいなことを
言ってたようだが、S.Rさんは物腰柔らかななかにもきっぱりと
「彼女は事前に予定を知りたいのです」と言ってくださる。
そうか、ザラーニエという言葉を使えばよかったのか、
などとこの時点ではまだ冷静だったが、
このあと、とてつもない詳細が判明し、心臓が打ち震えることに。

8日午前10時から、録音スタジオ「ブラックボックス」にて
レコーディングあり。ナタリアが案内するので見学されたし。
午後6時から9時半まで青少年会館にてコンサートのリハーサル。
取材するのであればその前に。
さらに9日には、ヴォロネジから250㎞、ウクライナとの国境沿いの
ベルグラード近くの町で、午後8時からコンサートあり。
戻りは翌日の午前3時になるが、もし興味があれば
バスに一緒に乗って行くことも可能だがどうするか?

想像だにしなかった夢のようなスケジュール。
「もちろん行きます!!」と代表団3人、声をそろえて即答。

そして、その8時間後……。
ヴォロネジの空港に降り立った我々の視線の先には、
まぎれもないヴィタリーさんその人が、穏やかな笑顔で立っていた。
ヴィタリーさんへの道、8カ月。
「会いたい」と心から思った人には必ず会える。

ヴィタリーさんへの道Ⅲ

2007-05-23 | ヴァルシェブニキ・ドヴァラ
《その3・転》歯がゆいやりとり

2月27日
モスクワ・ヴォロネジ・ペテルブルクの旅程案と予算案が出る。
高っ!! ロシアは今、超バブル。いたしかたない。

3月2日
早大研究室で会合ののち、I さん、Tさんと近くの喫茶店で旅程確認。
これまで現地でヴィタリーさんと直接コンタクトをとってくれていた
Tさんにヴィタリーさんの印象を聞く。
「とってもいい人!」とのこと。そうでしょうとも!

3月3日
コンサートと取材の具体的日程を問い合わせてもらう。

3月6日
返信がないので再度問合わせ。

3月20日
ヴィタリーさんとまだ連絡とれず。
I さんたちが留守にしていた間にペテルブルクにCDが届いており、
入れ違いでヴォロネジに戻ってしまったらしい。
なんと申し訳ないことを!
旅行会社にとりあえず東京・モスクワの往復航空券の予約を依頼。

3月21日
ペテルブルクに戻ったTさんから急きょ電話。何事か!?
ヴィタリーさんと今、話したところ、
8日のコンサートがなくなってしまったという。
7日にドイツから帰ってきて、8日から15日までヴォロネジにいる、
子供たちを集めて歌うところを見せてくれる、とのこと。
先方の受け入れ態勢は万全、とのことだが、
7日に取材、8日にコンサートを予定していたので旅程が狂う。
困った!! これじゃお目当てのソリストに会えないかも。

3月22日
ヴォロネジ取材を1日ズラして、5月8日・9日で決定。
ほかの国ならこんな変更は簡単にできるが、ロシアはそうはいかん。
幸い今回はバウチャー旅行ではなくヴィザ・サポートなので、
いっさいのホテルをまだ予約してなかったのが吉と出る。

3月23日
旅行会社より正式な日程表届く。

3月24日
ダーチャセミナーのあと旅行会社で打ち合わせ。
モスクワ・ヴォロネジ便を調べてもらう。
夜、ペテルブルクからメールあり。
再度ヴィタリーさんと連絡をとってくれ、以下の旅程が送られてくる。

5月7日 空港 又は鉄道駅 秘書のナタリアさん出迎え。
  8日 インタビュー
  9日 市内観光
  10日 ヴィタリーさんが空港まで送る。

ホテルはヴィタリーさんがとるのでパスポート情報を送れ、
最終旅程を決定せよ……とのこと。

「秘書のナタリアさん」とは、ヴィタリーさんの奥さんのことだろう。
しかし、送迎やホテル手配まで彼らにしてもらっていいのか!?

3月30日
「ヴィタリーさんにパスポート情報を送り、ヴォロネジの
ホテル予約を依頼した」とペテルブルクから回答あり。
同時に旅行確認書とバウチャーが添付されてくる。

4月2日
ヴィタリーさんはメールを読んでいないもようで、
ペテルブルクから再度パスポート情報をヴォロネジに送ってもらう。
この日、ロシア大使館領事部にてヴィザ申請。
「2週間後」ならタダだが、早くヴィザをとって安心したいので
5000円払って「1週間後」にあげてもらうことに。

4月3日
ペテルブルクより返信。
ヴィタリーさんに電話したところ、まだメールを見ていないとか。

4月10日
相変わらずヴィタリーさんは忙しく返事がもらえない、とペテルブルク。
「ヴォロネジのホテルは1泊3,000~4,000ルーブルになるもよう。
空港でのアテンド、ヴォロネジの取材、観光はヴィタリーが
確約しましたので問題ないと思います」とも。

ここで前々から引っかかっていたことを尋ねる。
>「観光」というのは、どなたかが案内してくださるのでしょうか?
「ヴィタリーさんです」、と即返信あり。マジかよ。

4月11日
ロシア大使館領事部にてヴィザ取得。
ペテルブルクから現地手配分の見積書送られてくる。

4月13日
旅行会社にてチケット一式受取り。これでもうキャンセルはできない。

4月19日
取材詳細確認を依頼。が、ペテルブルクで展示会が始まってしまい、
駐在員とその後、ぷっつりと連絡がとれなくなる。

4月25日
急にヴォロネジでもう1件用事ができたため、日程の詳細確認のため
ナタリアさんに直接ロシア語メール送る。
が、やはり返信なし……。なんのためのメールなんだ。

4月30日
出発日が迫っているのに、どこのホテルに泊まるのか?
取材はいつどこでするのか?などなど詳細がわからず、焦る。
ペテルブルクに問い合わせると、
「今日ドイツにいるヴィタリーさんと連絡がつき、予定通りの日程でOK
ということになりました。唯、ロシア人なので“全てOK”というだけで
ご質問の内容にお答えできる回答を得られませんでした」とのこと。

なにを~!? こうなったら出たとこ勝負でいくしかない。
……つづく。

ヴィタリーさんへの道Ⅱ

2007-05-22 | ヴァルシェブニキ・ドヴァラ
《その2・承》つながる!

2007年1月3日
ペテルブルク駐在のI さんに新年のご挨拶ついでに、
ヴァルシェブニキ・ドヴァラに取材できないかと打診。
即、手配OKの返事。ホントかなぁ??半信半疑。

1月13日
「ヴィタリーに電話したところ、いつでも来て下さいとのことでした」
とペテルブルクからメールあり。えっ、マジで!?
「CDはヴォロネジからサンクトに代引きで送ってくれるとのこと。
指定のCD名と枚数を書いて下さい。2月帰国時に持ち帰ります」とも。
CDの注文までしてくださっとは、ありがたい!
即、Kくんに連絡とり、シミュレーションして盛り上がる。
だが…。「いつでもどうぞ」はロシア流の物言い。
忙しい彼らに予定がないはずがない。それを聞き出さねば。

1月30日
ペテルブルクから旅程案が送られてくる。
この時点では、一方的に5月3日ヴォロネジ取材を予定。
並行して依頼していたペテルブルク園芸家協会ともコンタクトがとれ、
これ以降、ヴォロネジ&ペテルブルクの取材プランが
連動して進行することになる。

2月4日
ペテルブルク園芸家協会とI さんの協会が交流協定を結ぶことになり、
現地で展示会が開催される4月20日~27日に訪ロするプランが浮上。
正式調印を結ぶまではこの件はマル秘、とのこと。
したがって、連動していたヴォロネジ行きも伏せざるをえなくなる。

2月9日
ペテルブルクで展示会に参加したのちヴォロネジへ、という案を検討。
通訳が同行する場合、移動費もこちらで持たなければならないので、
なるべく安くあげるために、移動は列車20時間?
それともバスか?とネットで検索しまくりおおいに悩む。

2月10日
通訳費が高すぎるので、英語で取材できないか問い合わせたところ、
ペテルブルクからいきなりヴィタリーさんの連絡先が送られてくる。
途中で投げられても困るので、ちゃんと引継ぎしてくれるよう要請し、
こちらから英語で直接メールを送る旨を、
ヴィタリーさんに口頭で伝えておいてもらう。

一方、Kくんはこの日未明、子供スタジオ公式サイトの
オンライン・ミーティングでヴィタリーさんとの接触に成功!
ソリストのヴラッドくんの家系は千島列島出身で
日本に興味をもっている、などの貴重な情報を引き出す。
と同時に公式サイトのフォーラムにトピをたて、
日本のファンの存在をアピールしてくる。快挙!
以降、ブログにロシアはじめ海外からのアクセスが増える。

2月11日
ヴィタリーさんあてに取材依頼の英語メール送る。
が、待てど暮らせど、ナシのつぶて。
(あとで聞いたらロシア人は自分から用がない限り返信しないとか)

2月18日
返信が来ないので、ペテルブルク経由で同じ文面を転送してもらう。

2月20日
ペテルブルクから返信あり。
ヴィタリーさんと連絡がとれたが、こちらの希望日には
ドイツに行ってしまうので会えないことが判明。
ほら見たことか!
そのかわり5月8日にヴォロネジでコンサートがあるので、
それに合わせてきては?というのがヴィタリーさんの意見だそう。
となると、ペテルブルクの展示会から10日も間があいてしまう。
10日間も何をしてればいいのだ!?困った。

2月22日
帰国したI さんと、出版社で会う。
5月8日のコンサートを第一に考え、ペテルブルクの展示会はパスし、
園芸家協会には別途取材する線で旅程を詰めていたところ、
「私も行っていいですか?」と編集のOさんが同行を表明。あらま。

2月24日
ペテルブルクの調印式の件、極秘のお達しが解除されたので、
Kくんにこれまでの経緯を報告し、同行の意志を確認。
これにて「代表団」のメンバーがそろう。
……つづく。

ヴィタリーさんへの道Ⅰ

2007-05-20 | ヴァルシェブニキ・ドヴァラ
閑話休題。
今回、ロシアに行くことになったのは、ひとえにそこに
ヴィタリー・イワノビッチがいたからだ。

《その1・起》黒幕は誰だ?
はじまりは、古い友人の音楽ライターKくんからの1本のメール。
You tubeでロシアのどえらい少年少女グループを発見したので見て!
ロシア語の名前の読み方を教えて!との内容だった。
それが、2006年9月3日のこと。

Kくんは早速ミクシィにコミュをたちあげ、彼らについての情報を
尋常ならざる勢いで収集して次々アップ。鬼気迫る集中力である。

彼らの正体はヴォロネジに拠点をおく子供ヴァラエティ・スタジオ
『ヴァルシェブニキ・ドヴァラ』(中庭の魔法使い)に所属する子ら。
映像を見ると、確かに可愛いし、曲もいい。
すぐに思ったのは、彼らのバックにいる仕掛け人は誰なのか?
ということ。表舞台に立つ人より黒幕にそそられる性分である。

9月15日
NY在住のKくんの友人から送られてきたサイトで、
その人「ヴィタリー・イワノビッチ・オソシュニク」の名前を知る。
ロシア語サイトで検索すると、ざくざくヒット。
「コムソモルスカヤ・プラウダ」ヴォロネジ版にのった写真も発見!
まだ若い。ポスト・ソ連世代だ。がぜん興味がわく。会ってみたい。

10月2日
ヴォロネジの掲示板でヴィタリーさんの電話番号とメルアドを発見。
が、「そのとき」がくるまで連絡は控えておくことにする。
この間に、ヴィタリーさんは、スタジオ責任者であるだけでなく、
作詞・作曲、ステージ演出、子供らのお世話にいたるまで、
ひとりで何役もこなしているらしいこと、
作詞を手がけるナタリアさんという人が奥さんらしいことなどを知る。
いわゆる芸能プロではないらしい。レッスン料は無料。
ロシアに数ある芸術系スタジオだが、単なる音楽教室とも違う。
「ジュニア・ユーロヴィジョン」はじめ各国の音楽祭、コンクールに
出場しているし、何よりもオリジナルの曲がいい。
だがCDが売れてるわけでも全国的に知名度が高いわけでもない。
いったいどうやって運営しているのか?国の援助があるのだろうか?
聞いてみたいことが次々浮かぶ。

11月30日
ハバロフスク・ダーチャ訪問ツアーの打ち上げ会の際
12月4日からサンクトペテルブルクに赴任するIさんに、
ヴラッド・クルツキフ(ヴァルシェブニキのソリスト)の
CD購入を依頼。それとなく布石をうっておく。

12月1日
ミクシィではやはり波及効果に限界があるため、
Kくんのブログ、Влад Крутских и "Волшебники Двора"
(ヴラッド・クルツキフ&ヴァルシェブニキ・ドヴァラ)正式発信。
素晴らしい子供たちの存在を日本に知らしめるとともに、
内容を充実させて、いずれヴィタリーさんに見てもらう、
との明確な目標をたてる。計画発進!である。
……つづく。

ガルブシュキンの店員

2007-05-18 | ロシア取材2007
「モスクワのアキバ」こと、ガルブシュカへ。
行って初めて、そこがあの「ガルブシュキン・ドヴォル」だと知る。
何が“あの”かというと、ヴォロネジの子供音楽スタジオ
『ヴァルシェブニキ・ドヴァラ』が何度かコンサートを開いた
モバイル・プラザのある場所がココだったのだ。

電気製品、携帯電話、オーディオ用品などなど
秋葉原をひとつの巨大ビルのなかに封じ込めたかのような空間は
男子心をいたくくすぐるらしく、もう前しか見えていないKくんは、
S.Rさんを通訳に従えてCDショップに突進。
店員さんにあれこれ希望のものを尋ねまくる。

ここで特筆すべきは、若い男子店員の対応だ。
このショップ、四方をCDラックに囲まれたブース状のつくりで、
中央に店員がひとり立ち、四方からの注文に応じるしくみ。
右の客から注文を聞き、奥に下がってサッと所望のCDを出すや否や
くるりと左の客のほうを向き、間髪おかずに注文の品を差し出す。
さながら寿司屋のカウンターの板さんのようである。
こんなにキビキビ働くロシア人は初めて見た!
オールジャンルに精通している彼は、どんな質問にも即答。
なおかつフットワークも軽く、自分の店にないCDは
ほかの店を全部回って探し出してくる。
これがロシアのオタクなのか??

マヤコフスキー博物館

2007-05-18 | ロシア取材2007
今回のモスクワは、トランジットのために立ち寄ったもので、
特に取材もなく、とりたてて予定もたてていなかった。
ただひとつ、マヤコフスキー博物館に行くことだけを除いては。

入場料80ルーブル、写真撮影は別途150ルーブル。
革命詩人マヤコフスキーが住んでいた建物に、書籍、雑誌、書簡、
絵画、舞台写真、彼がスローガンを書いたポスターなどなど
膨大な作品の数々をコラージュして展示するという趣向。
NYのグッゲンハイム美術館のように、上階から螺旋状に降りながら
作品をたどる構造で、全館がマヤコフスキーをモチーフにした
一大インスタレーションのよう。ちょっとやり過ぎ感もあるが、
ロシア・アヴァンギャルドの息吹を全身で体感できようというものだ。


「ハラショー!」

各フロアには雑記帳のようなノートがぶら下がっていて、
作品解説がなされているようだが、いちいち見ている余裕はない。
なにしろフロアごとに、職務に忠実なバブシュカが待ち構えていて、
「下からじゃない!上の階から見なさい!」と叱咤され、
「撮影料は払ったか?」「それはカメラか?ビデオじゃないのか?」
とたびたび尋問を受け、監視されながらの鑑賞である。
そういえば博物館入口にも案内のおばあちゃんが立ってたし、
チケット売りもクローク係もおばあちゃんだった。
いったい館内には何人のバブシュカが生息してるんだ!?


ウラジーミル・マヤコフスキー(1893~1930)

戦勝記念日

2007-05-06 | ロシア取材2007
5月9日の戦勝記念日を控えて、モスクワの街はどこも華やか。
ソ連チックな巨大ポスターがあちこちを彩っている。

どういうわけだか日本のガイドブックのたぐいは、
この時期のポスターの飾りつけやらパレードを
5月1日のメーデーのものだと断言して紹介しているのだが、
それは大きな間違えである。ご覧あれ!
上のポスターは「戦勝記念日」、下は「5月9日」と書いてあります!



ロシア語の読める人にひと目見せて確認すればわかることなのに、
安易なデータの引き写しは、やめていただきたいものである。

ちなみに「戦勝記念日」とは、第二次世界大戦で
ソ連軍がナチス・ドイツに勝利した日のことで、
この戦争をロシアでは「大祖国戦争」と呼ぶ。
ソ連は地続きのドイツからじりじりと侵略を受け、
それはそれは悲惨な被害を蒙った。想像してみてほしい。
なにせ森のなかからいきなりナチスが現れるのだ。
アメリカが常に本土無傷で戦うのとはわけが違う。
村を次々焼き討ちにされ、何千万もの人命を失い、
だがしかし“冬将軍”を味方につけて、執念の勝利……。

このドラマティックな勝利を讃えて、
今もロシアの人々は、この日を盛大に祝う。
これまた日本のガイドブックには、
「ソ連時代には軍事パレードが行われた」と過去形で書かれているが、
こちらはどうやら11月の革命記念日と混同してるらしく、
5月9日には今でも各地で軍事パレードは行われている。
ただし、戦車やミサイルが繰り出すのではなく、
兵士や退役軍人たちが人々に讃えられて行進し、
無名戦士の墓に花をたむける、というもの。
日本では「戦争讃美」の行為としてとらえられかねないが、
ロシア人にとってこの日は、戦争を終わらせた日、
村や町に平和が戻った日として、記憶にとどめるべき日なのである。


旧KGB本部もお色直し。

イズマイロヴォの夜

2007-05-05 | ロシア取材2007
5月5日夕刻――。
ほぼ定刻どおりにモスクワ・シェレメチェヴォⅡ空港に到着。

今回はトランスファーをつけていないので、市内までの移動は自力。
「タクシ?タクシ?」の呼び込みをかきわけて、
空港前から二連結のバス(荷物込み50ルーブル)に乗り込む。
同行編集者のOさんは、4度目の訪ロで余裕の構えだが
ロシア初めてのKくんは、見るものすべてに大はしゃぎ。
「転倒注意」の標識を指差して笑い転げて転倒しそうになる。



終点レチノイ・ヴァグザル(河の駅)。
ここからメトロ(乗り放題17ルーブル)を乗り継ぎ、
パルチザンスカヤ駅へ。駅構内を飾る巨大モニュメントに、
またしてもKくん、発狂寸前である。

さてここまでのシミュレーションはカンペキだったのだが、
宿泊先のイズマイロヴォは巨大ホテル群。
あたりは薄暗く、どの建物が我々の宿泊先だかわからない。
正面はアルファ棟。斜め左はガンマ・デルタ棟。
いったいどこにあるんだ、我々の「ヴェガ棟」は??
ガラガラ荷物を引きずって、ようやく一番奥にヴェガ棟を発見。
待ち合わせしていたモスクワ在住のS.Rさんを20分以上待たせて
やっとホテルに到着したのであった。

この日はすることもないので、周辺のホテル探索へ。
売店をのぞいては、チャチで謎めいた商品の数々に、
過剰に反応するKくん。
昔はそうだったよなー、と初ロシアの日を思い出す。

追記:空港送迎をつけなかった、と言ったところ、
モスクワっ子のS先生にビックリされた。
「え!バスなんかどこから出てるの!?
なんでそんなこと知ってるの!?」
空港のサイトに出てますけど…。
ちなみにモスクワには「クラスナヤ・ゴールカ」という
送迎サービス業者があって、電話1本で車を回してくれるそう。
空港から市内1200ルーブル、家から空港800ルーブルとのこと。

ロシア取材前夜

2007-05-04 | ロシアコラム
5月5日~14日までロシア取材に行ってまいります。
今回は行く先々で、いろんな方とお会いできるので楽しみ。
わけてもヴィタリー・イワノビッチとその子供たち!
天使のような少年少女についに会える!!(…かもしれない)。
根回しに尽力してくださった方々にこの場をかりて御礼申し上げます。

しかし、いろんな人に会うということは、都度おみやげが必要、
ということで、みやげだけで荷物がパンパン。
同行者はまだこれから浅草に行ってハッピを買うといっている(笑)。
喜んでくれるとよいのだけれど…。

では、До встречи !

ベランダ近況

2007-05-02 | ダーチャごっこ
ここのところベランダに出るたびにハモグリバエつぶしに専念。
エンドウや小松菜の葉にもぐりこんでいる幼虫を
葉の上から指でプチリプチリとつぶすのだ。
気色悪いが、慣れてくるとプチプチをつぶすような快感に。
エンドウは実を食べるので深刻な被害はないが、小松菜は困る。
虫つきの葉をむしっていくと、結局食べるところがなかったり。

それでも小松菜、適時収穫。
冬越しのロメインレタス、縮れレタスも各1個収穫。
そして只今キュウリ2個、トマト1個、ミ二ニンジンも数本発芽。

ベランダのほうきは、例年どおりカラスの巣作りの材料となり、
バラバラになって散乱してる。すべて世はこともなし。
ただヒトのみぞ些事にまみれて写真を撮る余力もナイ…。

ロシア人のメール

2007-05-01 | ロシアコラム
あいかわらずロシアの取材先と連絡がとれない。
何度メールしてもなしのつぶて。
「あ、ロシア人てのは用のあるときしかメールしてきませんから」
とペテルブルク駐在のI 氏。

確かに、用のあるロシア人は執拗にメールをくれる。
「○月○日、18時に来てください。こちら町の中心部です」
まるで電報のような短信を連発。
こっちの都合もお構いなしの時間指定。
「町の中心部」って、それは一体どこなんだ!

黒やぎさんと白やぎさん。これじゃ郵便事情の悪かったころの
ロシアとの手紙のやりとりと変わりない。
携帯電話が普及するはずである。

……というわけで、現地のI 氏から携帯で連絡をとっていただき
ドイツにいた取材相手をつかまえてもらったのだが、
「すべてOK」というだけで、のれんに腕押し状態らしい。
フショ・ハラショー!?
そうじゃなくって、いつ、どこで、誰と会えるんだよ!?
携帯があってもやっぱりダメか、ロシア人。