北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

変える先にあるもの

2009-07-29 23:40:16 | Weblog
 アメリカでは”change”を唱えたオバマ氏が大統領となり、現状を変革しようという訴えが大衆の支持を得ました。

 今や日本でも何かを変えなくては発展がないような気がしています。しかし「変える」とは一体何なのか。変えた先にどのような社会を目指すのかが明らかでなければ、単に「変える」ということにどれくらいの意味があるのか。
 変えた先に光り輝く黄金の世界はあるのでしょうか。

 櫻田淳さんの興味深い論文をお届けします。


---------- 【以下引用】 ----------
【正論】東洋学園大学准教授・櫻田淳 黄金世界は現出しない覚悟を 2009.7.29 02:22





 ≪「取り替え」られる宰相群≫

 来る衆議院議員選挙の焦点として語られるのは、「政権交代」が成るかということである。実際、「政権交代」への気運は、過去に例がないほどに高まっているようである。しかし、そもそも、従来、日本の政治の風景で何よりも語られたのは、「変革」(change)ではなかったか。この「変革」の言葉は、元来、「交換する(取り替える)」ということを意味している。「変革」が「為替」(exchange)と同じ語源の言葉であることは、それを象徴的に示している。

 小泉純一郎元総理が自民党総裁任期満了という誠に奇妙な理由で宰相の座を退いて以降、安倍晋三、福田康夫、そして麻生太郎の3代の宰相が続々と登場したのは、結局のところは、その「交換」の結果に他ならない。故に、次期総選挙の結果、「政権交代」が成ったとしても、そのこと自体は、この宰相の「交換」の風景が続くことを意味するものでしかない。

 しかしながら、政治の文脈で模索されるべきは、そうした「変革」ではなく、「適応」(adjustment)である。それは、元来、「正しい方向へ」(ad-just)移るということを意味する。たとえば柳の枝が積もった雪の重みで撓(たわ)むのは、枝が折れずに元来の形を守るが故の「適応」であって、それを「変革」とは呼ばない。「柳に雪折れなし」の言葉が象徴的に示すように、日本が現在の平和や繁栄を護っていくためには、内外情勢の変容に的確に対応していくことが、必須の条件になる。

 ≪忘れられた「改革」の趣旨≫

 具体的には、「対外関係」の文脈でいえば、米国の「覇権」の後退と中国の隆盛という国際環境の中で、日本は、どのようなポジションを取っていくのであろうか。世界同時不況以後の国際社会では、たとえば「新興国」の筆頭としての中国は、「成長の牽引(けんいん)車」としての役割を期待されているけれども、その一方では、新疆ウイグル自治区での騒動に象徴される国内不安の種を抱え、その対外姿勢も露骨な利己の趣を漂わせることがある。

 塩野七生著『海の都の物語』に描かれているように、特に15世紀以降のヴェネツィアは、オスマン・トルコ、さらにはオーストリアやフランスといった周囲の大国の狭間(はざま)で苦闘しなければならなかったけれども、21世紀の日本もまた、そうした難儀な「適応」の試みを迫られているのではないか。また、「内治」の文脈でいえば、日本は、既に1970年代後半の時点で既に大幅な成長を期待し得ない立場に転じたわけであるけれども、近年では、これに「少子・高齢化」という社会情勢の変容が加わる。

 1980年代初頭以降、日本は、近年の「構造改革」に至るまで諸々の「改革」を模索してきたけれども、こうした「改革」は、内外情勢の変容の中でも引き続き「活力」を維持し、対外関係の中で「富」を得ていくための「適応」の試みに他ならなかった。そうした「改革」の趣旨は、今では忘れられていないか。

 ≪政治上の成熟が試される≫

 現在、政治家が語らなければならないのは、何よりも、そうした「適応」の中身である。しかしながら、現在の政治家が直面する困難とは、民主主義体制という本質的に「待つことが嫌いな」政治体制の下で、「待つこと」を要請する「適応」の営みを手掛けることにある。

 明治末期、日本最初の政治学体系書を著した小野塚喜平次(政治学者)は、政策展開に臨む際の作法として、「一挙シテ黄金世界ノ現出ヲ期スルハ到底不能ナルヲ覚悟スルコト」を挙げたけれども、メディアや一般国民は、そうした覚悟を持っているといえるであろうか。

 メディアも一般国民も、そうした覚悟を持たないが故にこそ、安直に政治における「変革」を求め、そして失望し、結果として政治に対する不信を募らせるという悪しき循環を招いている。政治家もまた、「民意の尊重」と称して、その「適応」の中身を語るという難儀な試みを往々にして怠りがちになる。

 筆者は、「政権交代」が適宜、行われる政治環境の醸成は、大事なことであると考えているけれども、それもまた、「適応」の中身が語られた上での結果でしかない。故に、仮に「政権交代」が成った場合を想定して筆者が注目しているのは、宰相の座に就くことになる鳩山由紀夫民主党代表の執政が期待された成果を遅々として挙げなかったとしても、掌を返して早々に宰相の「交換」(change)を求めるような声が浮かび上がることが、果たしてないかということである。

 実は、そうしたことを通じてこそ、日本の人々の「政治上の成熟」の程度が試されている。「待つことができない」国民が手にできるのは、それに相応(ふさわ)しい水準の政治でしかない。(さくらだ じゅん)

http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090729/stt0907290223001-n1.htm

---------- 【引用ここまで】 ----------

 「変える」というのは”change”ではなくて、”adjust”なのではないか。しかもadjustだとすると、ある目標に向かって自己を調整して整えて行く、という発想になるのではないか、という主張です。

 現状を変えさえすれば今の不満が解消されて素敵な世の中が来るような幻想を持っているとすれば、そんなことはないのだ、という寂しい覚悟が必要なのだ、という言葉は考えさせられます。

 自分の中で何かを得る変わりに何かを失うのか、自分が得る変わりに誰かが失うのか、本当にみんなが得るものを分け合うことが出来るのか。

 変えさえすればよいという短絡的な発想の一歩先にあるものを見つめなくてはなりません。 
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