「百万の典経 日下の燈(ひゃくまんのてんきょう にっかのともしび(とう))」
新年早々届いた「致知」の今月の特集テーマです。
意味は、「百万の経典を読んでも実行しなければ、お日様の下でろうそくを灯すようなもの(=なんの価値もない)」というもの。
明治8年から25年まで鎌倉円覚寺の管長を務めた今北洪川(いまきた・こうせん)の言葉だそうです。
言い方は違えど、同様の戒めを伝える言葉は多くあります。
曰く「実行の伴わない限り、いかなる名論卓説も画いた餅にひとしい」(森信三)
曰く「今日一日の実行こそが人生の全てである」(平澤興)
森信三は、その言葉が多くの生徒の心を打った伝説の教師であり「修身教授録」は名著です。
平澤興は、京都大学医学部を卒業し後に京都大学総長を務めた学舎ですが、その信条は今も我々の心を打つ大学者です。
平澤氏は医学部に入った時に命がけの勉強をしようと志を立てたのですが、あまり志が高すぎて一カ月でノイローゼになりました。
打ちひしがれて故郷の新潟へ帰り悶々としていたときにベートーベンの言葉が聞こえてきたと言います。
「勇気を出せ、たとえ肉体にいかなる欠点があろうとも、わが魂はこれに打ち勝たねばならない。今年こそ男一匹、本物になる覚悟をせねばならない」
ベートーベンの言葉に触れて、(あんな天才が耳が聞こえなくなるような艱難辛苦を乗り越えたのだから、自分のような凡才がこんなことでノイローゼになっていられるか)とまた一念発起し学問を身に着けて行ったのだと言います。
平澤氏はさらに「教育とは、火をつけて燃やすことだ。教えを受けるとは、燃やされることであり、火をつけられることです」とも言っています。
自分自身が燃えていなくては他人の心に火をつけることはできますまい。
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最後に私の敬愛する二宮尊徳は、後の高弟である富田高慶が尊徳先生がその報徳仕法で多くの疲弊した村々を救済したという話を聞いて、ぜひ弟子にしてほしいと入門を懇願されたときに、こう問いました。
「あなたは江戸の昌平黌(湯島聖堂)で10年も学んだとのことで、私には無学でとても及びが付かない。かねがね成人の道と言うものを解説してもらいたいと思っていたところだ。ついては書経にある『禹語(うご:禹という古代の聖王の言葉)』を解説してくれないか」
尊徳先生は道学者が嫌いだ、ということを知っていた富田は内心(しまった)と思いながらも、諸子百家の説を引用してこれを解説しました。
尊徳先生はじっと腕を組んで説明を聞き、そしてこういいました。
「お前がこの本の内容を理解していることはわかった。しかし書物は実行しなければ意味がないと聞いている。お前はこれを日常生活の中でどのように実行しているのだ?」
この後富田は入門を許され、その教えを故郷である相馬中村藩で実践し大いに成果を得、尊徳先生没後は「報徳記」という書物を著しています。
「我はただ実践あるのみ」と言った尊徳先生。
年頭に当たり、私も少しでも実践に心がけるよう自らを戒めたいと思います。