駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『ヤマトタケル』

2024年03月02日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 新橋演舞場、2024年2月16日16時半、26日11時。

 大和の国の帝(市川中車)には、双子の兄弟である大碓命(中村隼人、市川團子の役替わり)、小碓命(中村隼人、市川團子の二役)という皇子があったが、兄弟の母親は早くに亡くなり、帝は新しい皇后(市川門之助)を迎えていた。皇后に実子が生まれると、日継ぎの皇子である大碓命はその座を継母と義弟に奪われるのではと疑心暗鬼に陥り、父帝の愛情を試すようなことばかりしていたが…
 作/梅原猛、監修/石川耕士、脚本・演出/二世市川猿翁。1986年に初演されたスーパー歌舞伎の第一作。全三幕。

 最初にハヤトタケル、次にダンコタケルを観ました。熊襲弟タケルはどちらも中村歌之介、みやず姫は市川笑也。帝の使者はハヤトタケルの時は團子たん、ダンコタケルのときは市川青虎でした。
 てか猿翁さんの追悼番組として過去の上演の放送があったので録画して予習のために見ましたが、そのときはあまりおもしろいと思わなかったんですよね。長いのはともかくとして、ヤマトタケルが意味もなくただモテモテな気がして、戦いに関しても同じことをただ繰り返しているようで、なんだかなあぁ…と感じてしまったのです。
 なので今回、けっこう危惧していました。スーパー歌舞伎も歴史を紡いできていて、世の中も変わっているので、都度ブラッシュアップが必要であり、つまりそれは結局のところ猿之助さんの手腕が必要なのであって、あまり初演どおりに…とか原点に戻って…みたいな精神は要らないんじゃないの?と心配していたのです。そもそも猿翁さん自身の父親との確執とか、古い因習に囚われている歌舞伎界への「それでは駄目だ」というメッセージとかも込められた作品だそうですが、今や役者も観客も代替わりしているわけで(いや半世紀とかやっている人がザラにいることもわかってるんですけど、役者も観客も)、その構図がそのまま踏襲できるとは限らないわけで…とかとか、ね。
 でも、杞憂でした。何がどう改変されている、とかは上手く語れないので、もしかしたら生で観れば映像よりなんでもなんぼかおもしろく観られてしまう、というバイアスがあるのかもしれません。でも、ストーリーに納得できたし、おもしろく観られました。
 長いは長いんだけれど、西に行かされて勝った、でも駄目で、東に行かされて勝った、でも駄目で、駄目押しで近場で戦ったらついに力尽きた…というこの展開がやはり必要だと思うので、意味がある長さだと思います。もちろんたっぷり芝居をしているところや、宮中の雅な…といえば聞こえはいいけれど悠長なしゃべり方なんかを巻けば全体でもう半時間くらいは巻けるのかもしれないけれど、でもそういうことじゃないよね、とも思ったのです。
 ちょうどシネマ歌舞伎で少し前に劇団☆新感線がやった『阿弖流為』を観たのですが、あれは歌舞伎役者がやる中島歌舞伎、いのうえ歌舞伎であってスーパー歌舞伎とはやはりちょっと違うな、と感じたんですよね。それは主に台詞の口調と音楽の違いのためでしたでしょうか…ツケはあったけど音楽はロックだもん、エレキギターとかだったもん、和楽器じゃなかったもん。それは寂しい、と思う耳に私はもうなってしまったのでした…(それはともかくもう十年くらい待てば染團で再演してくれますかね!? めっちゃおもしろかったー! もちろん星組版とはいろいろ違って、でもやはり中島かずきって天才!とシビれました。生で観たいー!! そしてもちろんいい女形さんが欲しいよね、米吉さんより下の世代だと誰がいいのでしょう…)
 あと、芝居見物ってやはり昔ながらの庶民の娯楽で、一日劇場にいてご飯食べたり途中退出してロビーでお友達とおしゃべりしたり、ダラダラずっとずーっと過ごすのがよかったんだと思うんですよね。なのでやはりタイパとか考えず、半日つぶす思いで来てもらって、その分楽しませて帰す、という気合いでたっぷりみっちりやるべきものなんじゃないか、と思うのです。なので私はそのつもりで、週末にしたり平日有休を取ったりして臨みました。堪能しました、楽しかったです。

 ハヤトタケルは、さすがの絶対的ヒーロー感がありましたね。澤瀉屋以外の人が主演するのは初めてのことだそうで、それに関しては背負うものがあるんでしょうけれど、私にはまだそういう歌舞伎のおうちの事情みたいなことはよくわからないので、團子たんより年の功もあるし主演経験もあるし、余裕綽々なのでは?と思えました。なのでまずはストーリーを追うのに集中できた感じかなー。
 でも、橘姫姉妹(中村米吉の二役)もそうだけど、歳上役のときは深く重い声で、年下役のときは明るく高い声で演じ分けていて、そんな幼く純粋だった小碓が、戦いを経てどんどん凜々しく男らしくなっていき、声も変わっていって…けれどラスト、白鳥になったときのモノローグ台詞が、またかつての若く幼く明るいばかりだった声音に戻っていて、それがもうものすごく泣けました…良きお芝居だったと思います。

 でも、宝塚歌劇のワークショップとかの役替わり公演も、要するにそれはあくまで下級生スターさんのためのもので、今回もそういう側面がもちろんあると思います。團子たんは猿翁さんの孫で、父親が帝を演じている。隼人さんが二月末で抜けたあとはシングルキャストで主演して、御園座も大阪松竹座も博多座も務める…いいんだけど、いろんな事情もわかるんだけど、でもちょっと重いんでないかい?とはちょっと言いたくもなります。だってまだやっと二十歳の学生さんなんですよ? 開幕してすぐ、おそらくインフル感染か何かで休演したりもしたんですよ? ちょっと背負わせすぎでないかい? もっと若手とのダブルキャストにしたって、そりゃ集客はアレかもしれないけれど、リピーターは役替わりならそっちも観るか、となるはずだからアリだったのでは? いやヒロインは替わるけど、でもそれだけだと代わり映えもしないしさあぁ…とついつい老婆心が疼くのでした(その後、御園座では隼人さんも役替わりに戻ってくることが発表されました。さらにヒロインも米吉さんと壱太郎さんの役替わり…ヤダ、これは行かねば案件なのでは!?)。
 そもそもはステアラで猿之助さんと隼人さんが主演して、團子たんはヘタルベ(中村歌之介)って配役だったんだそうですね。本当ならそこから一歩ずつ、とかであるべきだったんですよねえぇ…
 が、私が観た回は期せずしてハヤトタケル千秋楽の翌日、さあここからまずは一か月シングルキャストで突っ走るぞ、という初日でした。そしてダンコタケルはとてもとてもよかった…! 贔屓目だとしても、その清冽さに私は心底感動しました。
 ダンコタケル→ハヤトタケルで観たお友達が、「一生懸命でよかったよ」→「さすがの場数だった」というような感想だったのですが、私は逆の順で観たので、「絶対的ヒーローの神話」→「人間味あふれるロマン」というふうに感じたんですよね…!

 小碓は大碓とは双子なんだから同じ歳で、でもあんなにぽやぽや幼いのは、兄が長男っぽいことを全部引き受けてくれているからなんです。彼が矢面に立って、父とも継母とも対立してきた。そしてこじらせてしまった。それをやや今さらとりなしに行った弟が、誤って兄を殺めてしまい、兄の名誉を守るためにもその正確な経緯を父親に言えず、罪を被って罰を受ける旅に出る…というのが、この物語のイントロです。で、團子小碓はホントおたおたしていて、でも一生懸命で、凜々しくて清々しくて、でも危なっかしくて、本当に少年性に貫かれている、悲劇のヒロインでした。女々しくはないんだけど、なんか姫っぽかったんですよね…!
 で、それはちゃんと演技でした、芝居でした。本人が本当にテンパっておたおた舞台に立っているからそれが役に出る、とかでは全然なくて、ちゃんとそういう役作りで計算されて丁寧に演じられていて、そしてそれが嘘くさくなかった、演技臭くなかった。そういうところがいいんだな、私は好きなんだな、と私は感じました。
 で、結果的にダンコタケルは、生身の少年らしさのある、けれどだからこそ神に祝福された英雄でもある、というような儚さ、危うさ、禍々しさ、狂気に通じかねない一本気さがあって、物語が圧倒的に凄惨に、悲劇的になったと感じたのでした。ハヤトタケルならワンチャン逆転あるんじゃね?とか思わなくもなかったけど、ダンコタケルはもうハナから負け戦だった気がしました。それでもやるし、戦えば勝つ、でも父帝には認められない…という、約束された悲劇に向けてひた走る感じがありました。
 大和朝廷による熊襲征伐ってホントただの侵略なんですよね。初演の頃は、新進の気を取り入れているのが大和で、熊襲も蝦夷も古くからの因習に囚われていて…というのがより顕著に出ていたのでしょうし、それは歌舞伎の古いだけの因習を打破しようとしていた猿翁さんの姿が小碓に重ねられて、そっちがちゃんと正義に見えていたのかもしれません。でも今、スーパー歌舞伎ってもはやそれなりの地位を得ていて(いやホントの歌舞伎界の中ではまたどうなのかは私なんかは全然知らないわけですけど…)、歌舞伎界全体も因習ばかりじゃなくなってるってのが共通認識だと思うので、この構図はちょっと当たらないし、あと国民に政府、国家、国への信頼度が落ちているターンなので、この物語展開を観て「大和が正しい、勝ってスカッと爽やか」って感じる観客って減っていると思うんですよね…
 でも熊襲は小碓の強さにひれ伏しちゃうし、彼を認めてタケルの名を譲ることすらする。当人はやったったー!と天に向かって雄叫びを上げ、日輪も登ってきちゃうんだけど、でもその悲壮さ、虚しさ、痛ましさやいたたまれなさがむしろ際立っちゃって、ものすごくざわざわする、怖い、悲しい、せつない一幕ラストになっていたと思いました。これはすごい團子たん効果だな、と私は感じ入ったのでした…
 ところで一幕クライマックスのどったんばったんは、私はドリフだなとか一瞬思ったんですが、違うんですねドリフの方が歌舞伎だったんです。
 私がテレビでドリフを見ていた子供のころ、我が家にはそういう経済的余裕がなく両親にもそうした素養がなかったようなので歌舞伎見物など遠い世界のことでしたが、しかし歌舞伎は今よりはずっと大衆的でまだまだフツーに人気があって、今のように高級視されたり奉られるような伝統芸能扱いされたり一部の教養ある方々のための高雅な娯楽…みたいな扱いではなかったのではないでしょうか。もうちょっとベタに身近だったというか。で、テレビ局の人とかこういうコント芸能を作るようなスタッフとかもみんな歌舞伎を囓っていて、それでドリフでああいう屋体崩しのようなことを毎度やっていたのではないでしょうか…すごいなあ、伝統って。

 二幕のタケヒコ(中村福之助)がタケルに服従する経緯とかは、本当は具体的なエピソードを作って一場面やってもらいたいくらいだし、それも隼人さんと團子たんだとだいぶ印象が異なる場面になったのではないかな、などとも夢想しますが、女性たち相手でもやはり印象は違って、橘姉妹なんかは彼女たちなりのドラマがあるしその演じ分けも大きいのでそれはそれとして、ことに小碓が叔母の倭姫(市川笑三郎)とみやず姫を相手にしたくだりの差は興味深かったです。
 ハヤトタケルのときは、倭姫に関するいわゆる中年女性いじりが気に障りました。隼人さんに色気があって、これまたワンチャンあるように見えたからかも…だから、中年女性の色恋や性欲を嘲笑うような流れに私はよりイラッとさせられたのかもしれません。当然あって然るべきなんですけど? なんのおかしいこともないんですけど?? ってキレて立ち上がりたいくらいでした。
 そしてみやず姫に対する軽口や、ここまで来て彼がちょっと気が大きくなっている感じにも説得力がありました。あんな台詞、イケメン色男でないと言えないと思うの…!
 対してダンコタケルは、倭姫の軽口のような本音に対してどうとも反応せずきょとんとしたままなので、全体としておもしろい冗談になって見えたのかもしれません。これだけ言われてもただ素直に泣いてすがるこのタケルの幼さ、清らかさは、もちろんそれはそれで罪なんだけれど、色恋とは遠いところにあるな、と…なのでみやず姫を妻にもらうくだりは「うーん、苦しい…」と私は感じました。脚本として、このころの一夫多妻制に対しての現代的、フェミニズム的なつっこみは一応入っているのですが、まだ足りていない、というせいもありますけれどね…やはりまだ色男感が足りなかった、と思いました。
 でも結局のところヤマトタケルの物語って、父親に認められたくて、褒められたくてがんばる、だが叶わない、という話なんだけれど、母に死なれ、継母に疎まれ、叔母に慈しまれ、橘姉妹やみやず姫たちには愛され、最後は姥神との戦いで傷つき倒れるので、彼が女たちに振り回されて終わる話なんだな、とも思えました。たまたまかもしれないけれど、神話ってそういうところ、ありますよね…それが後世に作られた、変にマッチョでホモソーシャルな物語より私なんかには観やすいのかも、なんてことも考えさせられました。

 ヒロインの兄橘姫、弟橘姫もよかったですねー。まあ弟姫はややカマトトに見えなくもなくもなかったかもしれません…でも一番の見せ場はやはり走水の海のくだりなんでしょうね。いやここはさすがによかったです。
 でもキャラとしては兄姫が好きなのです、私は。タケルが最後に弟姫の名前だけ呼ばないのは、もう海の皇后に出してしまった人なので遠慮したというかなんというかなのかな、とか思いました。もう神様になってしまったような人なので、というか…
 お衣装はどちらも素晴らしかったですが、弟姫が朱や桃色を着て兄姫が白や紫なの、ホント素敵でしたよね。着替えては出て、の連続で中の人は大変だったんでしょうけれど、ホント眼福でした。
 で、兄姫は、大碓にいろいろと問題があることは知りつつも、それでももう添っちゃった(要するにやることやっちゃった、てかやられちゃった)からには背の君として立てるしかないわけで、もちろんそれなりには愛してもいたでしょうし、だから小碓に殺されてそりゃ驚くし怒るし嘆くし、復讐に追っかけもしようというものです。ただそこで、兄の謀反を訴えることで兄の名誉を傷つけ父の心を傷つけることを怖れて、自分が悪かったことにする小碓のまっすぐさ、清らかさ、優しさに心打たれちゃったんですよね…ここはなんかちょっと脚本がヌルかった気がしたので、もっとねちねちやってもいいくらいにいいメロドラマだったと思います。
 熊襲征伐から帰ってめでたく夫婦として娶されるくだりも、ホントは小碓側にはもうワンクッション、とまどいやためらいがあったはずなのだけれど…まあこのあたりに少女漫画レベルのデリカシーを求めるのは無理な気もするので、脳内補完して萌えておきました。
 小碓の遠征にくっついて行けた弟姫と違って、正妻として契りを交わしたもののわずか三日かそこらで別れざるをえず、しかし子供は授かって、でも敵ばかりの王宮の中で息子を守って夫の帰りを待ち続けた兄姫の暮らしは、そりゃ大変だったことでしょう…この姉妹はひとり二役で演じられることもふたりがきちんと演じ分けることもあったようだけれど、掘り下げるつもりなら早替わりのお楽しみ以上にドラマがあるので、ふたりの女形さんにがっつり演じてもらってもよかったのかもしれません。
 というかタケヒコといいヘタルベ(中村歌之介)といい、彼もまた小碓に心酔して付き従うようになった経緯が具体的にあるはずなので、ホントはそのあたりも観たいし、そもそも仲間集めに3時間くらいやってもいい物語なのかもしれません(笑)。梅原氏の最初の脚本はそのままやると10時間くらいかかりそうなものだったそうですが、ソレですよねホントはね。
 でもスカスカで何もない薄っぺらい物語よりは、何かあるんだろうなと思わせる舞台の方がいいわけで、やはりこれは再演されるに足る、よく出来た舞台なのだと思います。今後もブラッシュアップされて再演されていくといいと思います。というかまず今回の上演が、大千秋楽には別ものに仕上がっていそうで、それが観たくてまた遠征しちゃいそうで、僕は怖い…(^^;)

 主人公兄弟、ヒロイン姉妹だけでなく、熊襲兄弟や相模兄弟など、兄弟が多く出てくるのも神話っぽくて私は好きでした。そしてみんな関係性がちょっとずつ違うのがいいんですよね…帝と倭姫だけが性別の違う兄妹なのでした、それも味わい深い。
 あとは老大臣(市川寿猿)の第一声「おはようございます」から開幕する、というのも素敵ですよね。どうぞいつまでもお元気で…
 ワカタケルで初舞台を踏んだ團子たんが帝の使者としてワカタケルを見つめる、という場面の胸アツさもたまりませんでした。てかこの使者、いいお役ですよね…! そして團子使者はなんかもう光源氏みたいに私には見えましたよ…!!
 白鳥となった宙乗りも、そこからのカテコとラインナップもとてもよかったです。このときの曲がもう脳に染みつきました…(まあまあ尺ありましたからね(笑))
 どうぞこの先の長丁場、無事に乗り切れますように。実り多き公演になりますように、お祈りしています。そして私が御園座か松竹座か博多座に行っていたら、生温かく見守ってやってください……




 







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