駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

モダンスイマーズ『だからビリーは東京で』

2022年01月15日 | 観劇記/タイトルた行
 東京芸術劇場シアターイースト、2022年1月14日18時半。

 とある劇団と、何かを始めようとした若者の話。作・演出/蓬莱竜太。全1幕。

 なんとなく良さげな評判を聞いて、さくっとチケットを取って行ってきました。開場時間を開演時間と間違えてだいぶ早く会場前に行っちゃったんですが、お若い方々が行列して当日券を買っていくのを眺められて、ほっこりしたのでむしろよかったです。良きことですね…わりと有名な劇団かなと思うんですけど、チケット代はそんなに高くはなかったですもんね。しかしどういう構造になっているのかホント謎ですよね演劇って…これだけ観ていても値付け感とか元が取れているのかとかが全然わかりません。私個人は、「金返せ」とまで思ったことはそんなにはないけど…(ないとは言えないかな、と。あとむしろ「時間返せ」と思うタイプ)
 というわけで私は初・モダンスイマーズでした。蓬莱さん自体は観たことがあって、こちらこちらなど。今回がそれっぽいのかはわかりませんが、とても楽しく観ました。演劇っぽい演劇なのもとてもよかったです。

 ビリー・エリオットはバレエに目覚めてロンドンに旅立ちました。凛太郎(名村辰)は演劇に目覚めて東京に出てきました。正しくは、地元から進学で東京に出てきて、そこでミュージカル『ビリーエリオット』を観て演劇をやりたいと思うようになった、のですが。ロンドンでのビリーにいろいろあっただろうのと同様に、東京での凛太郎にもいろいろあった、彼が所属した劇団にも…そんな物語です。現代の東京の青春群像劇、みたいな面もありますが、劇団、舞台、演劇、芝居の芝居というメタさもある作品でした。
 ビリーはやがて(いずれ)『白鳥の湖』に出演しますが、凛太郎の初舞台はコロナ禍でお稽古が中断されます。その間にも生家でいろいろあったり色恋やお金の問題ができたり、いろいろします。そもそもこの劇団は親友同士の女性ふたり(伊藤沙保、成田亜祐美)が作ったものだけれど、そこにも積年のいろいろがあって、お稽古場を提供している作・演出家(津村知与文)にもいろいろがある。それらがユーモラスに、またブラックに、リアルにまたファンタジックに描かれていきます。
 なんせもう役者がみんな抜群に上手くて、みんなもうそのキャラの人みたいにしか見えないんですよね。絶対そんなことあるはずないのにね。多分寄せて書いてるとかも絶対ないと思うんですよね、演技ってホントすごい。多分この役者たち、違う作品なら声音だって全然違うんだと思う。あたりまえだろうって言われそうですが。でもこの作品では素なの?みたいに見える。すごい。ナチュラルに見える芝居の凄みを感じました。
 こういう脚本が書けることもすごいけど、でも脚本だけ読んでもぴんとこない部分も多そうで、それを役者たちの芝居がくっきり立ち上げ練り上げて今の舞台に仕上げているんじゃないかなあ、と感じました。大根の芝居がまた上手いし、ラストに最初に戻るような仕掛けの構造なんだけれど、ちゃんと違うんですよね。それがもう本当に素晴らしくて、気持ち良く拍手を切っちゃいました。だってちゃんとオチたってわかるし、劇中ではこの劇団は拍手なんか来ないタイプの芝居をやっているという設定になっていましたからね。
 本当は、あまりメタって好みじゃないんですよ。なんか自意識過剰とか自己満足を感じないこともないので。でもこの作品は今だからこその、それこそ自意識あってこそ着想された、そして今だからこそ上演された作品なのかな、とも思います。もちろん今後再演されたときに、そのときの社会状況なんかによって違った意味づけをされたり違った印象で捉えられたりしていく、ということはあるんでしょうけれど。というかそれは現時点でだって、観客ひとりひとりの違う受け取り方があるわけですけれど。
 私は演劇の観客だから、役者をやったことはないし戯曲を書いたこともプロデュースしたこともなく観客としてしか関わったことがないので、観客なしの舞台を上演しようとすることには最初「はて、それは演劇と言えるのか」と思ったんですよね。誰も聞く人がいないところで倒れた木が立てた音は存在したと言えるのか、というアレですね。でも、この上演は、初舞台を踏めていない凛太郎のための舞台でした。彼を舞台に立たせるための上演、役者を芝居させるための芝居。もちろん観られてナンボなんだけれど、それでも、その前にまず役者が板に立たなければ何も始まらない。そのためにやる。そのために書く、演技する、歌う、動く。まず自分のために。そうしないではいられないから。創作ってそういうものなのかもしれないな、と思いました。もちろん必ず受け取り手を必要とすることとセットなんだけれど、それでも、まず。
 そんな真摯な思いに胸打たれて、そういう思いなら演劇でなくとも自分にも覚えがあるので、このメタさを受け入れ、かつ最終場の芝居のすごさに打たれて、暗転して幕が下りて(比喩ですが)、続いて明転してラインナップになったときにあまりの清々しさに打たれて、気持ち良く拍手したのでした。
 途中、という言葉も何度か出てきましたが、それは東京にかかるのかもしれないけれど人生にもかかるものだよね、とも思ったりしました。私は東京に「出てきた」と言うほどの意識もない近郊出身者ですし、今のところずっと東京で生きていくつもりなので。でもおそらく東京を通過点にする人の方が多いのかもしれません。少なくとも「今」が通過点、人生の途中であることは万人に共通していて、だからコロナ禍も、また感染拡大状況が怪しくなってきたけれどそれでもやっぱり途中で、だからいずれこれを抜けて次へ進めるんだ、という意識は持っていいんだと思います。「だから」今は「東京で」生きていて、この芝居を観ている。そんなタイトルなんだろうな、と思いました。そして創作や物語に触れることは自転車に乗ることと同じなんだと思うのです。歩きよりちょっとだけ遠くへ楽に行ける…良き観劇でした。
 あとやっぱいいハコだよねシアター東西、ごくごくシンプルなんですけれどね。好きです。コロナ禍でしたことのひとつに芸劇メンバー登録がありますが、やってよかったと思っています。



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