駒子の備忘録

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『シャンハイムーン』

2018年02月25日 | 観劇記/タイトルさ行
 世田谷パブリックシアター、2018年2月24日13時半。

 時は1934年(昭和九年)8月23日から9月16日までの約一か月間、場所は上海市北四川路底の内山書店二階倉庫。9年間に渡って上海の地下に潜り、一管の筆を武器に文筆活動を行っていた魯迅(野村萬斎)は蒋介石の国民党政府の軍警による弾圧が強くなるたびにさらに深く地に潜り、その避難行は前後四回に及んだ。それを一回にまとめた戯曲。
 作/井上ひさし、演出/栗山民也、音楽/宇野誠一郎、国広和毅、美術/二村周作。1991年初演、全2幕。こまつ座と世田谷パブリックシアターの三回目の共同制作。

 こまつ座の作品はOG目当てでいくつか観ていて、不勉強なものでわかったりわからなかったりしたものでしたが、今回のようにがっつり会話劇で音楽の逃げ場ナシ、みたいなお芝居は初めてだったかもしれません。イケコの盆だのセリだのの場面転換満載グランド・ミュージカルに慣れちゃうといかにも地味なんだけれど、そもそもは舞台演劇ってこういう、場所は一か所固定で場面転換なんてなくて、会話と演技で物語が紡がれ、その制約の中でこそ広く豊かに世界が広がる…みたいなものを味わうものだよな、としみじみ思いました。おもしろかったです。
 ただ、大変に不勉強なことを恥じながら告白しますが、私はこの時代の日本のことも中国のことも日本人のことも中国人のことも魯迅のこともその著作のことも、教科書で習った程度のことしか知らないので、作家がこの作品を通して訴えたかったことの半分くらいしか受け取れていないのできないかな、と思いました。それは本当に申し訳なく思いました。
 でも、かつてあったこの特殊な状況下のことがきちんと理解できていなくても、想像はできるし、今現在またキナ臭い空気はあって未来を心配する思いはあるので、やはりいろいろと胸に迫ってきました。プログラムには「この芝居は"人間と人間の信頼"、"基本的な人間のあり方"と、ああいう時代に日本人がやっていた"日本人の可能性"を信じて書かれています」という作家の言葉が書かれています。何国人とか何人とか、本当に意味がない。たとえば日本人の父親と中国人の母親を持つ奥田先生(土屋佑壱)がそうです。魯迅は中国人なのに中国政府から迫害され、その最期を看取ったのは日本人ばかりだった、というのがお話の締めですが、それだってきっとたまたまで意味はない。これは人間なら誰でも、近くにいたら助け合うよね、というだけのことを描いている作品でもあるのです。
 ただ、主人公、というか中心人物が魯迅であったこと、ということには意味はあるのかもしれません。誰でも、どこでも、助け合っているけれど市井の人だと大きなドラマにはならないわけで、魯迅が偉大な文筆家であり思想家だったから、というのは大きいでしょう。残念ながら私はその著作を読んだことはありませんが、ある時代のある層には必須の読書体験だったのでしょうしね。別に有名人だから守るべしとか、そういうことではなくて、誰のどんな命だって大切なんだけれど、もしもし人の命より大切な者、重いものがあるとすればそれは思想とか、創作とか、その志、心のありよう、自由、そういったものだと思うんですよね。それを護るために人は命をとして戦うことがある、ということです。いや戦うというのは正確ではないかもしれないな、時の政府の弾圧に対してただ抗っているだけだから。交戦はしていない、こちらからは何もしかけていない。ただ屈しない。暴力を否定する。魯迅の著作や思想を具体的には知らずとも、それは守られるべきだということはわかるし、周りの人々の強さ、尊さも十分わかりました。だから感動しました。半分かもしれなくとも。
 タイトルは、魯迅が日本に亡命し鎌倉で静養していたら書かれたかもしれない小説のタイトル、です。悲しく、はかなく、美しい。
 初演では須藤先生(山崎一)を演じたという辻萬長が今回は内山完造を演じている、というのも素敵ですよね。長く愛され何度も再演されている戯曲にはこういう醍醐味もあるのだと思います。
 あと、ラジオのアナウンサーの声が浅野和之だったのが個人的にはツボでした。
 セットと照明(服部基)もとても素敵でした。

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