シアタードラマシティ、2010年3月9日ソワレ(初日)、15日マチネ。
日本青年館、2010年3月26日ソワレ(東京公演初日)、28日ソワレ、30日ソワレ、4月2日マチネ(千秋楽)。
第三次世界大戦後の日本。地上の水は汚染され、安全な水源は誰もその場所を知ることのない幻の都・シャングリラに君臨する王によって支配されていた。旅芸人一座の踊り子・美雨(野々すみ花)は、砂漠で倒れていたひとりの男(大空祐飛)を助ける。男は意識を取り戻したが、一切の記憶を失っていた。男は美雨から「空」という名前を与えられ、一座に加わることになる。空が美雨に助けてくれたお礼にと差し出した首飾りは、だが、美雨がかつて想い人・嵐(蘭寿とむ)に渡したものだった…作・演出/小柳奈穂子、作曲・編曲/吉田優子、振付/御織ゆみ乃、KAZUMI-BOY。全2幕。
Pia-no-jaC『風神雷神』を聴きながら公演を思い起こしてます。
曲の中に入る掛け声が、空のものじゃないのが、なんか変な感じ…
正直、東京公演の初日を観たときには、嵐がとても情熱的になっていて濃いいい芝居をするようになったな、と思った他は、やっぱり終盤のセリフのやりとりの穴が気になって気になって、とても泣けない、通う気になれない、確保してあるチケットをいくらか手放そうか…と思ったくらいでした。
ところでその後、思いのほかフィナーレにはまり、なんかこれですべて許せる気になるんだから舞台って卑怯だぜ、って思ったりもしました。
ナンバーがいい、ダンスがいいというのもあるけれど、がんばって役を作った役者がそれぞれ出てきてお辞儀するのに、胸熱くさせないわけないじゃないですか。
で、最後の最後に主役が出てきて、みんなで迎えて。
主役をセンターに、役なんかないかのようにみんなで激しく楽しく踊って。
そのあと、主役が歌う主題化に合わせて、また役に戻った役者たちが、物語の中では争い合っていた人たち同士も、亡くなってしまった人たちも、笑って、ハイタッチなんかしたりして、
「ああ、桃源郷なんてものがもしあるとしたら、それはみんながこんなふうに笑い合える場所だったのかしら」
なんて思わせられるわけで、じんとこないわけないじゃないですか。
そして、宝塚歌劇団で本当にすばらしいなと思う、それこそ上級生になればなるほどしっかりしてくる、美しいお辞儀。感動しないわけないんですよね…
でも。
萌えたもの勝ち、うるさいこと言ったもの負けの舞台だったのだとしても。
でも、もしかしたら、たとえば漫画家や小説家が担当編集者にダメ出しされたりする過程が、脚本家にはもしかしたら本当にないのかもしれないから。
これでよかったんだ、完璧だったんだ、と思われたら本当に困るから。だってそれはちがうから。
だから、あえて、私は言う。
ここでだけでなく、もしかしたら投書する形ででもなんでも、伝えていきたいと思います。
もっと良くなっていってほしいと思っているから。
ちなみに、最初と最後で空が着ているインナーのTシャツが、白地に黒の写真かイラストの印刷なのですが、胸元の柄が乳房の影か黒ブラジャーに見えるので、これじゃなくちゃいけないわけじゃないんだったら変更を検討してほしい…と歌劇団にメールしたのですが、その意見は採用されませんでしたね…がっくし。
ツイッターでは何人かの賛同も得られたので、気になっていた人は他にもいると思うんだけれどなあ…男役に女性を見せてしまうのは、この場合は単純にミスというか不利だと思うので、検討していただきたかったです。
さて。
では、脚本上の問題点について。
数々ある中ニ病設定のうち、いくつも生かしきれていないものがあるじゃないか…というようなことについては、私は、まあ、いいや。
たとえば私はドラマシティ初演観劇時に雹のポジションというかちーちゃんの使われ方に感動し、
「なんて儲け役!」
と思いましたが、もともと期待していなかったので逆にそれだけで十分でした。
先に評判を聞いてしまうと過剰に萌えてしまって、物足りなく思う人も多かったようですね。
確かに、撃たれて倒れる雹を、空は抱えて抱きしめる、くらいの芝居はしてもよかったかもしれない。萌えとして、ではなく、ふたりの関係性として、でもなく、空の人間性の表現として。
つまりこの脚本家は命を粗略にしすぎだと思う。あんたがそういう人なのは勝手だが、キャラクターたちまでそういう人間に見せてしまうのは迷惑な話な訳です。
たとえば空が、墜落した飛行機の調査に来た兵士を撃ち殺してしまったときの演出。
空が無意識的に動ける自分の身体に衝撃を受け、
「俺は何者なんだ!?」
と怯え、悩む。それはいい。
しかしそれはそれとして、目の前の死体に対してはどう行動させたんだよ。
かつては優秀な兵士で、それこそ眉ひとつ動かすことなく人を殺せた男だったとしても、今の空は記憶をなくしたただの青年であり、記憶はなくしても一般的な常識は残っていたわけで、だから「人を殺してしまった」という事実、目の前の死体に対して冷静でいられたはずはない訳です。
隠さなくちゃ、なのか、通報しなくちゃ、なのか、とにかく何かしたはずなのです。それが普通の人の行動です。
なのに、脚本は空にその後何もさせていません。
細かい腹を探られたくないシャングリラ側が、さっさと死体を回収して事件をなかったことにした、ということはもちろんあると思います。
だったら、空が怯えて、でも通報もできなくて、でも風たちにもとても言い出せなくて、まんじりともしない一夜をすごしたあとに、恐る恐る昨夜の現場に戻ってみたら死体はもうなくなっていて、自分でも夢だと思うことにした…みたいな描写が、たとえ説明セリフでもいいから、置けばよかった。
でないと、人をひとり殺しておいて、そんなことをまるでなんでもなかったかのように忘れ去った風情で、るんるんと東京へのドライブに赴く空を見せつけられて、観客としては鼻白まざるをえなくなるわけですよ。
そりゃ本当の空はそういう人間だったのかもしれません。彼は確かに一時は冷酷な兵士だったのでしょう。だから美雨たちの村も襲った。
しかしそうでなくなってきたからこそ、氷と対立し、シャングリラを出ようとすらしたわけでしょう?
最近の空は人の命や死にこんなに鈍感ではなかったはずなんです。
まして今の空は普通の人間のはずなのであり、観客には彼への好感度を持たせることが演劇としては必要です。
そういうところに神経を注げないのは、脚本家としては問題だと思うわけですよ。
たとえばの話が長くなりました。私が本当に問題にしたいのはそこではなかった。いや通じるところもあるんだけれど。
要するに私は、この脚本が、人の命を軽く扱っていることが嫌なのです。
海が、氷が、霙が死ぬのであれば、それには確たる理由が必要なのです。
ましてそこで観客を泣かせようとしているのだからなおさらです。
雹はギリギリだった、もしかしたら霙も。メインのキャラクター、エピソードではないからです。
しかし海は、氷は。
あの脚本では私は許せません。彼らのためにも。
そもそもあいまいな言葉を使っていて意味不明瞭ということもあり、空と氷が何に対してどんな対立をしているのかが、まったくもっとわかりづらかったことが最大の問題点ではないでしょうか。
そんなに言葉数を増やさなくても、もっとシンプルにコンパクトに説明はできたはずなのです。
氷は、
「差別されたんだから、こっちも差別してやる」
という思考。
対して空は、当初は氷に感化されて同じような考え方をしていたかもしれなかったけれど(弟の目をつぶした奴らに復讐してやる、という発言は自然であり、子供の考え方としては単純にして当然です)、徐々に
「差別されたんだから、そしてそれがつらかったんだから、だからこっちは差別してはいけない」
というふうに考えるようになった、という、ただそれだけのことですよ。
それを上手く言わせてあげれば十分だったのです。
それを、何?
「真の知性は毒だ」
でしたっけ? 本公演とちがって『ル・サンク』が出ないんで脚本が手に入らず、記憶に頼るだけの状態で細かい台詞について語るのはなんなんですが、しかし。
この、パンフレットによれば「第三次世界大戦後の日本」らしき世界は、確かに荒廃し文明も後退しているようですが、失われているのは知識であって知性ではない。たとえば涙がコンピュータや電気を知らなくても、教われば理解し活用できるんだから彼の知性は後退しているわけではない。馬鹿になっている訳ではないのです。単に知らないだけなのです。
なのにここで脚本家は知性と知識を混同して、なのに悦に入ってこんな台詞を書いているわけですよ。ちゃんちゃらおかしいし、言わされる氷はいい迷惑です。
氷に言わせるべきなのは、水は枯れていないという真実を国民というか一般大衆というか、に知らせてしまうと、また無駄遣いしちゃったり、自分たちだけで独占しようとしてよそ者に分けてやらなくなったりといった悪さをしちゃうに決まってるでしょ、だからエラいボクタチが管理しなければならないんだ、というようなことですよ。「管理されなければならない」という台詞はありましたけれどね。
民衆を悪く言うのに、なんだっけ、「すぐビジネスになる」みたいな揶揄を脚本は氷に言わせているんだけれど、あの瞬間に観客みんなが
「ビジネスにしてるのはあんたやん」
と突っ込んだと思うんですよね。オンディーヌだかいう高価な浄水器を売りつけようとしているわけでしょ?
そんなすぐ突っ込まれる脆い論理を、この国の為政者であり真の支配者である氷に言わせないでほしいわけですよ。
氷は、氷なりの考え方で、理想と信念をもってこの国を経営しているわけです。
よそ者をいわれなく差別し迫害するような民衆は偏狭で愚劣だ。すべてを与えたらすべて駄目にするに決まっている。だからシャングリラが管理し、制限してやらなければならない。その際一時は不自由させるかもしれないが、最終的にはこの方が長く平和が、幸福が維持できる…
このやり方はある意味正しい。
それに対して、氷に救われ、教えられ、成長し、いつしか技量的にも氷を追い抜いた空は、氷とは、そして昔の自分とはちがう考え方をするようになった。
弟の目をつぶした奴らに仕返ししてやりたい、と思ってきたけれど、本当は人間を、他人を、もっと信じてもいいのではないだろうか。自分たちはたまたまよそ者だと差別され迫害されたけれど、みんながみんなそうはしないんじゃないだろうか。全部を与えても、全部を独占したり駄目にしたりするとは限らないんじゃないだろうか。だからすべて公開し、平等に、みんなで考え、みんなで分け合い、みんなで共有し、利用していけばいいんじゃないだろうか。そういうことがきっとできる気がする…
(だって以前だって、助けてくれようとした人はいたんだもの。なんという名だっけ、あの、水を渡してくれようとしていた少女…最近夢に見て、思い出した…なんてね)
空のこういう考え方も、ある意味で正しい。
寡頭政治か衆愚政治か、民主主義か社会主義か…人類が何千年とかけて試行錯誤してきた二大本流な訳です。正解はない、だからこそ対立する。
情がどうの、という台詞もありましたが、ふたりは本来はそんな話はしていないわけですよ。
その間に立って、失明し、守られ、ある意味子供のままの海はまさに「王子様」であり、この問題に関してははっきり言ってどっちでもいい。ていうかちゃんと考えたことない、そんなこと考えたくない、そんなことでもめないで今までどおりみんなで(というのはもちろんシャングリラの五人で、ということですが)仲良く楽しくやっていこうよ、としか考えていない。
けれど、シャングリラの中だけでは、空はもう息苦しくて、息が詰まるようで、生きづらかったのです。海のようにずっと子供ではいられない。
「水門を閉鎖するのは許せなかった」
と脚本は空に言わせていますが、実際には許していたんでしょ? 氷は水門を閉鎖していたんだから。王が許せないと言っているのに実際はそんな状態だったなんておかしい。それは許していたことになるのだから矛盾しています。ここも「許す」という日本語の二重の意味が脚本家は上手く使えていないわけ。ここは「反対だった」と言わせるべきなのです。
反対した、しかしその意見は通らなかった。空は名ばかりの王で、実質的に差配しているのは氷だから。
その話をしていて、「だったら出て行け」となるのは正しい流れですが、「嵐の女を連れて来い」ってのはヘンでしょ? それは連れて帰って来いってことなんだから「出てけ」と逆じゃん。ホイホイ引き受ける空もどうかしています。
しかも氷は確かに水門の写真データが公開されたら困るわけで、嵐にデータのありかを吐かせるためには人質が必要だったはずなのです。なのに飛行機に細工した。空を殺すために。
じゃあ人質はどうするつもりだったんだって話ですよ。空とは別の誰かをこっそり派遣する、とかすべきなんですが、脚本は一切スルー。アホちゃうか。
こういうところが引っかかるから、氷が飛行機に細工はしたんだけど空を本当に殺したいとは思っていなくて、帰ってこれない程度にするつもりだった、何故なら本当は彼をシャングリラから出してやりたかったからだ、彼を愛していたからだ…なんてことに萌えたいのに萌えられないワケ。
ああ、イライラする。
空はシャングリラを出たかった。
氷も空の望みをかなえてやりたかった。
しかしそこには海が残される。
空に、海が置いていけるのか? 何も考えていない、今のシャングリラに満足しきっている、目の見えない弟を?
では氷に海が手放せるのか? 自分にはなかった幸せな子供時代の象徴のような、明るくてわがままで満ち足りた、幸福であるがゆえに周りまでも幸福にするような、弟のような愛すべき海を?
決められない。
だからふたりは結論を先延ばしにしたんですよね。
なのに、事件はおきた…それがドラマなのです。
でも、本当は、氷はやっぱり空を殺したかったのかもしれない。
シャングリラを出て行くというのなら、自分のそばにいないというのなら、死なせてしまいたい。そういう独占欲。
加えて海の存在です。空がいる以上、海はあくまで空の弟であり、どこまでいっても自分だけのものにはならない。海を完全に手に入れるためには、空を殺してしまわなければならない。
つまり、ふたりは、水の処置で争っているように見えて、実は海を争っているようにも見える、というか争っていたんだ、となると、とても萌えられるわけです。
あるいは、お互いの愛を争って。
空はシャングリラを出て行った。氷は空を出て行かせた。なのに空は帰ってきた。雹を殺してまでも。
どこで間違ったのか。また同じことを繰り返すのか。空はやり直せるというけれど、出口などないのだ。
だからやはり氷は空を殺すしかない。だから銃を向けた。しかし撃たれたのは海だった。
海を失って、自分はもう生きていけない。いく甲斐もない。
あるいは。海を殺してしまった自分を、空はこの先絶対に許すことはないだろう。だからもう生きていけない。空に許されないのなら、空に愛されないのなら。
空はいつも海のものだったけれど、空から海を奪っても空が自分のものになることはないのだ、という絶望。
そういうものがないと、氷が死のうとしたことが解せない。許せない。
空のために、水門を開ける。自分の身が水に飲まれて死ぬことになるとわかっていても。もう生きてはいけないから。いく甲斐がないから。
だけど空は引き止める。嵐が空を引きとめる。「行かせてやれ」と。
それで観客は泣くんでしょ。その絶望に、そうとしか生きられなかった氷のせつなさに、哀しさに。
その「絶望」が見えない。
だから、なんで氷が死ななきゃいけないの? なんで嵐は「行かせてやれ」なんてひどいこと言うの? と理不尽さに怒り身を震わせる羽目になるのです。止めきれない空が力のないしょうもない人に見えてしまう。
それじゃ駄目でしょ。
それに氷への愛ゆえに行動を共にした霙があわれです。
何より、死ななくてもいいのに死なされる氷があわれです。観客を泣かせるために殺されるキャラクターがあわれで、なのに理屈が通っていないから泣けない観客があわれです。
海はね、仕方ないと思うの。
空と氷の間で、どちらも選べない、選ばない海は、死ぬしかない(ヒドい)とも言えるから。
でも、ちゃんと氷が死なないと、もちろん海も死に損なんですよ。
その死の重さに耐えかねて、空は美雨たちの前から姿を消すんですよ。
だけど美雨が空を探し当てて、空と海の間にかかる虹が見られたから、だから空は涙ながらに美雨を抱きしめるんですよ。
それで観客も涙、涙のハッピーエンド…となるべきなんですよ。
なのに。
なのに…あああ、これじゃダメなんだって…
このメンバーにコスプレをさせて企画はすばらしい。
その気概は買う。
その上でなお、こういうものをやりたいのならクリアにすべきものがあったはずなのだ、と、猛省を促したいです。
日本青年館、2010年3月26日ソワレ(東京公演初日)、28日ソワレ、30日ソワレ、4月2日マチネ(千秋楽)。
第三次世界大戦後の日本。地上の水は汚染され、安全な水源は誰もその場所を知ることのない幻の都・シャングリラに君臨する王によって支配されていた。旅芸人一座の踊り子・美雨(野々すみ花)は、砂漠で倒れていたひとりの男(大空祐飛)を助ける。男は意識を取り戻したが、一切の記憶を失っていた。男は美雨から「空」という名前を与えられ、一座に加わることになる。空が美雨に助けてくれたお礼にと差し出した首飾りは、だが、美雨がかつて想い人・嵐(蘭寿とむ)に渡したものだった…作・演出/小柳奈穂子、作曲・編曲/吉田優子、振付/御織ゆみ乃、KAZUMI-BOY。全2幕。
Pia-no-jaC『風神雷神』を聴きながら公演を思い起こしてます。
曲の中に入る掛け声が、空のものじゃないのが、なんか変な感じ…
正直、東京公演の初日を観たときには、嵐がとても情熱的になっていて濃いいい芝居をするようになったな、と思った他は、やっぱり終盤のセリフのやりとりの穴が気になって気になって、とても泣けない、通う気になれない、確保してあるチケットをいくらか手放そうか…と思ったくらいでした。
ところでその後、思いのほかフィナーレにはまり、なんかこれですべて許せる気になるんだから舞台って卑怯だぜ、って思ったりもしました。
ナンバーがいい、ダンスがいいというのもあるけれど、がんばって役を作った役者がそれぞれ出てきてお辞儀するのに、胸熱くさせないわけないじゃないですか。
で、最後の最後に主役が出てきて、みんなで迎えて。
主役をセンターに、役なんかないかのようにみんなで激しく楽しく踊って。
そのあと、主役が歌う主題化に合わせて、また役に戻った役者たちが、物語の中では争い合っていた人たち同士も、亡くなってしまった人たちも、笑って、ハイタッチなんかしたりして、
「ああ、桃源郷なんてものがもしあるとしたら、それはみんながこんなふうに笑い合える場所だったのかしら」
なんて思わせられるわけで、じんとこないわけないじゃないですか。
そして、宝塚歌劇団で本当にすばらしいなと思う、それこそ上級生になればなるほどしっかりしてくる、美しいお辞儀。感動しないわけないんですよね…
でも。
萌えたもの勝ち、うるさいこと言ったもの負けの舞台だったのだとしても。
でも、もしかしたら、たとえば漫画家や小説家が担当編集者にダメ出しされたりする過程が、脚本家にはもしかしたら本当にないのかもしれないから。
これでよかったんだ、完璧だったんだ、と思われたら本当に困るから。だってそれはちがうから。
だから、あえて、私は言う。
ここでだけでなく、もしかしたら投書する形ででもなんでも、伝えていきたいと思います。
もっと良くなっていってほしいと思っているから。
ちなみに、最初と最後で空が着ているインナーのTシャツが、白地に黒の写真かイラストの印刷なのですが、胸元の柄が乳房の影か黒ブラジャーに見えるので、これじゃなくちゃいけないわけじゃないんだったら変更を検討してほしい…と歌劇団にメールしたのですが、その意見は採用されませんでしたね…がっくし。
ツイッターでは何人かの賛同も得られたので、気になっていた人は他にもいると思うんだけれどなあ…男役に女性を見せてしまうのは、この場合は単純にミスというか不利だと思うので、検討していただきたかったです。
さて。
では、脚本上の問題点について。
数々ある中ニ病設定のうち、いくつも生かしきれていないものがあるじゃないか…というようなことについては、私は、まあ、いいや。
たとえば私はドラマシティ初演観劇時に雹のポジションというかちーちゃんの使われ方に感動し、
「なんて儲け役!」
と思いましたが、もともと期待していなかったので逆にそれだけで十分でした。
先に評判を聞いてしまうと過剰に萌えてしまって、物足りなく思う人も多かったようですね。
確かに、撃たれて倒れる雹を、空は抱えて抱きしめる、くらいの芝居はしてもよかったかもしれない。萌えとして、ではなく、ふたりの関係性として、でもなく、空の人間性の表現として。
つまりこの脚本家は命を粗略にしすぎだと思う。あんたがそういう人なのは勝手だが、キャラクターたちまでそういう人間に見せてしまうのは迷惑な話な訳です。
たとえば空が、墜落した飛行機の調査に来た兵士を撃ち殺してしまったときの演出。
空が無意識的に動ける自分の身体に衝撃を受け、
「俺は何者なんだ!?」
と怯え、悩む。それはいい。
しかしそれはそれとして、目の前の死体に対してはどう行動させたんだよ。
かつては優秀な兵士で、それこそ眉ひとつ動かすことなく人を殺せた男だったとしても、今の空は記憶をなくしたただの青年であり、記憶はなくしても一般的な常識は残っていたわけで、だから「人を殺してしまった」という事実、目の前の死体に対して冷静でいられたはずはない訳です。
隠さなくちゃ、なのか、通報しなくちゃ、なのか、とにかく何かしたはずなのです。それが普通の人の行動です。
なのに、脚本は空にその後何もさせていません。
細かい腹を探られたくないシャングリラ側が、さっさと死体を回収して事件をなかったことにした、ということはもちろんあると思います。
だったら、空が怯えて、でも通報もできなくて、でも風たちにもとても言い出せなくて、まんじりともしない一夜をすごしたあとに、恐る恐る昨夜の現場に戻ってみたら死体はもうなくなっていて、自分でも夢だと思うことにした…みたいな描写が、たとえ説明セリフでもいいから、置けばよかった。
でないと、人をひとり殺しておいて、そんなことをまるでなんでもなかったかのように忘れ去った風情で、るんるんと東京へのドライブに赴く空を見せつけられて、観客としては鼻白まざるをえなくなるわけですよ。
そりゃ本当の空はそういう人間だったのかもしれません。彼は確かに一時は冷酷な兵士だったのでしょう。だから美雨たちの村も襲った。
しかしそうでなくなってきたからこそ、氷と対立し、シャングリラを出ようとすらしたわけでしょう?
最近の空は人の命や死にこんなに鈍感ではなかったはずなんです。
まして今の空は普通の人間のはずなのであり、観客には彼への好感度を持たせることが演劇としては必要です。
そういうところに神経を注げないのは、脚本家としては問題だと思うわけですよ。
たとえばの話が長くなりました。私が本当に問題にしたいのはそこではなかった。いや通じるところもあるんだけれど。
要するに私は、この脚本が、人の命を軽く扱っていることが嫌なのです。
海が、氷が、霙が死ぬのであれば、それには確たる理由が必要なのです。
ましてそこで観客を泣かせようとしているのだからなおさらです。
雹はギリギリだった、もしかしたら霙も。メインのキャラクター、エピソードではないからです。
しかし海は、氷は。
あの脚本では私は許せません。彼らのためにも。
そもそもあいまいな言葉を使っていて意味不明瞭ということもあり、空と氷が何に対してどんな対立をしているのかが、まったくもっとわかりづらかったことが最大の問題点ではないでしょうか。
そんなに言葉数を増やさなくても、もっとシンプルにコンパクトに説明はできたはずなのです。
氷は、
「差別されたんだから、こっちも差別してやる」
という思考。
対して空は、当初は氷に感化されて同じような考え方をしていたかもしれなかったけれど(弟の目をつぶした奴らに復讐してやる、という発言は自然であり、子供の考え方としては単純にして当然です)、徐々に
「差別されたんだから、そしてそれがつらかったんだから、だからこっちは差別してはいけない」
というふうに考えるようになった、という、ただそれだけのことですよ。
それを上手く言わせてあげれば十分だったのです。
それを、何?
「真の知性は毒だ」
でしたっけ? 本公演とちがって『ル・サンク』が出ないんで脚本が手に入らず、記憶に頼るだけの状態で細かい台詞について語るのはなんなんですが、しかし。
この、パンフレットによれば「第三次世界大戦後の日本」らしき世界は、確かに荒廃し文明も後退しているようですが、失われているのは知識であって知性ではない。たとえば涙がコンピュータや電気を知らなくても、教われば理解し活用できるんだから彼の知性は後退しているわけではない。馬鹿になっている訳ではないのです。単に知らないだけなのです。
なのにここで脚本家は知性と知識を混同して、なのに悦に入ってこんな台詞を書いているわけですよ。ちゃんちゃらおかしいし、言わされる氷はいい迷惑です。
氷に言わせるべきなのは、水は枯れていないという真実を国民というか一般大衆というか、に知らせてしまうと、また無駄遣いしちゃったり、自分たちだけで独占しようとしてよそ者に分けてやらなくなったりといった悪さをしちゃうに決まってるでしょ、だからエラいボクタチが管理しなければならないんだ、というようなことですよ。「管理されなければならない」という台詞はありましたけれどね。
民衆を悪く言うのに、なんだっけ、「すぐビジネスになる」みたいな揶揄を脚本は氷に言わせているんだけれど、あの瞬間に観客みんなが
「ビジネスにしてるのはあんたやん」
と突っ込んだと思うんですよね。オンディーヌだかいう高価な浄水器を売りつけようとしているわけでしょ?
そんなすぐ突っ込まれる脆い論理を、この国の為政者であり真の支配者である氷に言わせないでほしいわけですよ。
氷は、氷なりの考え方で、理想と信念をもってこの国を経営しているわけです。
よそ者をいわれなく差別し迫害するような民衆は偏狭で愚劣だ。すべてを与えたらすべて駄目にするに決まっている。だからシャングリラが管理し、制限してやらなければならない。その際一時は不自由させるかもしれないが、最終的にはこの方が長く平和が、幸福が維持できる…
このやり方はある意味正しい。
それに対して、氷に救われ、教えられ、成長し、いつしか技量的にも氷を追い抜いた空は、氷とは、そして昔の自分とはちがう考え方をするようになった。
弟の目をつぶした奴らに仕返ししてやりたい、と思ってきたけれど、本当は人間を、他人を、もっと信じてもいいのではないだろうか。自分たちはたまたまよそ者だと差別され迫害されたけれど、みんながみんなそうはしないんじゃないだろうか。全部を与えても、全部を独占したり駄目にしたりするとは限らないんじゃないだろうか。だからすべて公開し、平等に、みんなで考え、みんなで分け合い、みんなで共有し、利用していけばいいんじゃないだろうか。そういうことがきっとできる気がする…
(だって以前だって、助けてくれようとした人はいたんだもの。なんという名だっけ、あの、水を渡してくれようとしていた少女…最近夢に見て、思い出した…なんてね)
空のこういう考え方も、ある意味で正しい。
寡頭政治か衆愚政治か、民主主義か社会主義か…人類が何千年とかけて試行錯誤してきた二大本流な訳です。正解はない、だからこそ対立する。
情がどうの、という台詞もありましたが、ふたりは本来はそんな話はしていないわけですよ。
その間に立って、失明し、守られ、ある意味子供のままの海はまさに「王子様」であり、この問題に関してははっきり言ってどっちでもいい。ていうかちゃんと考えたことない、そんなこと考えたくない、そんなことでもめないで今までどおりみんなで(というのはもちろんシャングリラの五人で、ということですが)仲良く楽しくやっていこうよ、としか考えていない。
けれど、シャングリラの中だけでは、空はもう息苦しくて、息が詰まるようで、生きづらかったのです。海のようにずっと子供ではいられない。
「水門を閉鎖するのは許せなかった」
と脚本は空に言わせていますが、実際には許していたんでしょ? 氷は水門を閉鎖していたんだから。王が許せないと言っているのに実際はそんな状態だったなんておかしい。それは許していたことになるのだから矛盾しています。ここも「許す」という日本語の二重の意味が脚本家は上手く使えていないわけ。ここは「反対だった」と言わせるべきなのです。
反対した、しかしその意見は通らなかった。空は名ばかりの王で、実質的に差配しているのは氷だから。
その話をしていて、「だったら出て行け」となるのは正しい流れですが、「嵐の女を連れて来い」ってのはヘンでしょ? それは連れて帰って来いってことなんだから「出てけ」と逆じゃん。ホイホイ引き受ける空もどうかしています。
しかも氷は確かに水門の写真データが公開されたら困るわけで、嵐にデータのありかを吐かせるためには人質が必要だったはずなのです。なのに飛行機に細工した。空を殺すために。
じゃあ人質はどうするつもりだったんだって話ですよ。空とは別の誰かをこっそり派遣する、とかすべきなんですが、脚本は一切スルー。アホちゃうか。
こういうところが引っかかるから、氷が飛行機に細工はしたんだけど空を本当に殺したいとは思っていなくて、帰ってこれない程度にするつもりだった、何故なら本当は彼をシャングリラから出してやりたかったからだ、彼を愛していたからだ…なんてことに萌えたいのに萌えられないワケ。
ああ、イライラする。
空はシャングリラを出たかった。
氷も空の望みをかなえてやりたかった。
しかしそこには海が残される。
空に、海が置いていけるのか? 何も考えていない、今のシャングリラに満足しきっている、目の見えない弟を?
では氷に海が手放せるのか? 自分にはなかった幸せな子供時代の象徴のような、明るくてわがままで満ち足りた、幸福であるがゆえに周りまでも幸福にするような、弟のような愛すべき海を?
決められない。
だからふたりは結論を先延ばしにしたんですよね。
なのに、事件はおきた…それがドラマなのです。
でも、本当は、氷はやっぱり空を殺したかったのかもしれない。
シャングリラを出て行くというのなら、自分のそばにいないというのなら、死なせてしまいたい。そういう独占欲。
加えて海の存在です。空がいる以上、海はあくまで空の弟であり、どこまでいっても自分だけのものにはならない。海を完全に手に入れるためには、空を殺してしまわなければならない。
つまり、ふたりは、水の処置で争っているように見えて、実は海を争っているようにも見える、というか争っていたんだ、となると、とても萌えられるわけです。
あるいは、お互いの愛を争って。
空はシャングリラを出て行った。氷は空を出て行かせた。なのに空は帰ってきた。雹を殺してまでも。
どこで間違ったのか。また同じことを繰り返すのか。空はやり直せるというけれど、出口などないのだ。
だからやはり氷は空を殺すしかない。だから銃を向けた。しかし撃たれたのは海だった。
海を失って、自分はもう生きていけない。いく甲斐もない。
あるいは。海を殺してしまった自分を、空はこの先絶対に許すことはないだろう。だからもう生きていけない。空に許されないのなら、空に愛されないのなら。
空はいつも海のものだったけれど、空から海を奪っても空が自分のものになることはないのだ、という絶望。
そういうものがないと、氷が死のうとしたことが解せない。許せない。
空のために、水門を開ける。自分の身が水に飲まれて死ぬことになるとわかっていても。もう生きてはいけないから。いく甲斐がないから。
だけど空は引き止める。嵐が空を引きとめる。「行かせてやれ」と。
それで観客は泣くんでしょ。その絶望に、そうとしか生きられなかった氷のせつなさに、哀しさに。
その「絶望」が見えない。
だから、なんで氷が死ななきゃいけないの? なんで嵐は「行かせてやれ」なんてひどいこと言うの? と理不尽さに怒り身を震わせる羽目になるのです。止めきれない空が力のないしょうもない人に見えてしまう。
それじゃ駄目でしょ。
それに氷への愛ゆえに行動を共にした霙があわれです。
何より、死ななくてもいいのに死なされる氷があわれです。観客を泣かせるために殺されるキャラクターがあわれで、なのに理屈が通っていないから泣けない観客があわれです。
海はね、仕方ないと思うの。
空と氷の間で、どちらも選べない、選ばない海は、死ぬしかない(ヒドい)とも言えるから。
でも、ちゃんと氷が死なないと、もちろん海も死に損なんですよ。
その死の重さに耐えかねて、空は美雨たちの前から姿を消すんですよ。
だけど美雨が空を探し当てて、空と海の間にかかる虹が見られたから、だから空は涙ながらに美雨を抱きしめるんですよ。
それで観客も涙、涙のハッピーエンド…となるべきなんですよ。
なのに。
なのに…あああ、これじゃダメなんだって…
このメンバーにコスプレをさせて企画はすばらしい。
その気概は買う。
その上でなお、こういうものをやりたいのならクリアにすべきものがあったはずなのだ、と、猛省を促したいです。
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