駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『ジュリアス・シーザー』

2021年11月05日 | 観劇記/タイトルさ行
 PARCO劇場、2021年10月30日18時。

 共和制末期のローマ。宿敵ポンペイを打ち破ったシーザー(シルビア・グラブ)が、民衆の歓呼を浴びながら堂々と凱旋する。華やかな行列に盲した占師(高丸えみり)が「気をつけるがよい、3月15日に」と再三声を掛けるが、シーザーは一顧だにしない。シーザーは今や民衆を完全に味方にし、対抗勢力もなく、栄華を極めていた。ブルータス (吉田羊)はシーザーの片腕とも言われる存在だが、シーザーの増長を良しとせず、友と国を想う気持ちに引き裂かれていた。独裁政治へと通じる危機を予感したキャシアス(松本紀保)は今こそ立ち上がるときと断じ、ブルータスを仲間に入れるべくかき口説くが…
 作/ウィリアム・シェイクスピア、翻訳/福田恆存、演出/森新太郎。オール・フィメール18人のカンパニーで上演される政治劇、全1幕。

 評判を聞いて、そしてメイン女優四人がみんな好きなので(私はドラマ『プロミス・シンデレラ』は松井玲奈目当てで見ていましたよ…)、出かけてきました。が、肩すかしだったかな…森新太郎は私には当たり外れがある気がしています。
 最近だと『アウグストゥス』もあったし、まあ『暁のローマ』なんかも思い出しつつ、歴史としてのこのあたりのことはわかっているつもりなのでそれは大丈夫だったんですけれど、結局オール・フィメールでやることの意味がよくわかりませんでした。日本語だとどうしても一人称に性差が出るから、というのもありますが、女優が女装のまま(胸もあるし細い腕も出す、ドレスというほど装飾はないものの要するにロングワンピなスカート姿なので)男性として演技し男声で男言葉の台詞を言うことに、なんの意味があるのか私にはよくわかりませんでした。女性の役のポーシャ(藤野涼子)やキャルバーニア(鈴木崇乃)も多少髪を結っただけで夫たちと変わらない出で立ちで出てきて、特に声を高くしたりもしていないので、差異はほとんどない、けれど百合っぽいわけでもない。柿食う客の「女体シェイクスピア」の『発情ジュリアス・シーザー』がおもしろかった記憶があるだけに、はて…?という印象になりました。
 シェイクスピア劇には女性の役が少ないこともあり、男性の役だからって男優がやらなくてもいいんじゃない?という発想自体はアリだと思うのだけれど、だからただそれだけでやりましたというならいいんだけど、なんかもっと意味を持たせているようなところがあるように思えたので、私がそれを感じ取れなくて困惑した…のかもしれません。もっと違う感触を得て解釈した方には申し訳ございません…
 松本紀保がいわゆるすらりとスレンダーな身体じゃないのがとてもよかったです。そこには意味が見えました。アントニー(松井玲奈)が若くて華があるのもとてもよかったと思います。しかし喉はどうしたんだ、つぶしちゃったのか、それでこの声なのか…心配。
 なんか、別に女言葉にしなくていいけど、ただ一人称「私」で、声も特に低くすることなくただ普通の地声で台詞を言ったら、全然印象が変わったんじゃないかなあ。女だって政治も戦争もするし、女だけのこういう世界もありえるのかもしれないよ…?って思わせるのは、おもしろかったんじゃないのかなあ。
 シャープな装置(美術/伊藤雅子)は印象的でした。音楽の使い方はわざとなんだろうけど、うーん…という感じ。あと暗転の間に立っておいてよそれでカテコに入ってよ、と今回も思うパターンでした…



 
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