2009年5月26日、栗本薫=中島梓が56歳の生涯を閉じた。08年にすい臓ガンが肝臓に転移し、抗ガン治療を続けて以来、意識を失うまで精力的に執筆した。作家であり、主婦であり、母であったひとりの女性のガン闘病記にして命の証。
私は『グイン・サーガ』のアタマ30冊ほどを読んだことがある程度の(ほかに数冊は読んでいると思うのですが…そして『小説道場』は指南書としてとても出来がいいと思った記憶はあるのですが)、ファンだとはとても言えない読者でした。
なんか著者が自作とかキャラクターのパロディをやっちゃう感じが、読者やファンの領域を侵しているようで、そんなことを著者本人がやっちゃったらこちらの立つ瀬がないじゃん…みたいに感じてげんなりしたんですよね。まあ私も若かった…
私より15歳年長なだけの、同世代と言っていい同性の作家で、エラそうですが近親憎悪みたいなものもあったのでしょう。
自分が人生初入院を経験したばかりということもあって、文庫になっていたのでふらふらと読み始めてしまいました。
闘病記としては『アマゾネスのように』『ガン病棟のピーターラビット』など先行するものがあるようですが未読です。そして絶筆がこの作品となりました。
これは自宅に戻っていて、検査や治療に通院しながら闘病しているころの日記なので、私のような入院中に処置が終ってきれいさっぱり戻ってきた、という体験とはまた違うし、病状のレベルももちろん全然違うものなのですが、やはり完全に健康体でいたころ読んだのとは違う感覚で今回は読んだかな、と思います。
痛いのがとにかくつらい、とか。痛くて眠れないのがつらい、とか。食べたいのに吐いちゃうし下しちゃうしで食べられない栄養が取れないのがつらい、とか。
少しだけでも散歩に出たい、太陽の光を浴びたい、とか。おいしいものを食べに出かけたい、おしゃれして買い物に行きたい、とか。友達と会いたい、おしゃべりしたい、とか。
すごくわかりました。
一方でもちろん全然違うところもあって…
私は独身で夫も子供もいず、そして両親とも健在でそんなにストレスのない関係を築けていると思っていて、トラウマとかは全然ない。
ダイエットはしたことあるし成功したり失敗したりしているわけですが、摂食障害になったことはないし、お酒も好きですがアルコール中毒になったこともない。
そしておそらくそんなにお金の苦労をしたことがない、少なくとも何千万円もの借金を背負い込んだことはない。
要するに平々凡々たる人間なわけです。
苦労したから才能に恵まれたのか、そういうことではないものなのか、それはわかりませんが…
とにかくこの著者は母親に対して屈託があるし、でも家族だからあたりまえかもしれませんが未だにマンションの隣同士で住んでいて食事はしょっちゅう行き来していて、けれど本人は「団欒」が苦痛で仕方がない。
でも50年以上暮らしているというのに嫌なことが嫌だと言えないし、嫌でなくなるということもないというこの業の深さ。
それでも母親に対し夫に対し成人した息子に対し家庭の主婦役を務めようとして、自分は食べられない食事をきちんきちんと作ろうとする姿勢はいっそすさまじい。
粘着質の記録魔である感じも、「こりゃ生きづらい性格だよな…」と思えてしまう。
イヤ本当にだからこそ作家として大成したのかもしれませんし、当人がそれで幸せだったか不幸だったかはたとえ本人がこういうところでどう書いていようと本人にしかわからないことなのですが…
読んでいる分には、つらい。周りにいたお友達なんかはなおさら見ていてつらかったろうなあ、と思いました。
夫とは愛し合い支え合っていたようで、その交情は美しく、そもそもは不倫だったそうですがそれが問題になっている様子はないので、これはいいのですが…
でも結局は夫の入院のストレスが著者の命を縮めたように私には読めました。
夫が入院して、そちらの手術は順調に済んで、でも著者は欝になってしまって、発熱して入院して、あっという間に検査の数値が悪くなって、昏睡状態になってわずか10日で永眠。夫の入院からきっかり一か月後のことです。怖い。
それくらい愛し頼り依存していたのでしょう。
そしてそれと同じくらい、著者はとにかく書くことに依存していた。それはわかります。
私は常々、たとえば何かの病気がわかって余命宣告みたいなものがなされた日には、仕事は好きですがしかしすぐさま会社を辞めて、毎日劇場と漫画喫茶に通って観たい芝居を観て読みたい漫画と小説を読んで、その感想をブログなりツイッターなりに書いて、たまに反応がもらえたりして、そういうことをし続けていって死にたい、とか考えていました。
それくらい、フィクションを愛すること、それを観たり読んだりして味わうこと、それについて考えること、その考えを述べて誰かに反応してもらうこと、が生きる支えになっている。今までもそればかりして生きてきた。
何かを創作する力量は私にはない。でも何かを感じる感覚はある、それを誰かに聞いてもらいたいしできれば共有してもらえたりすると嬉しい。そういうコミュニケーションは欲している。
それができないとなると、体より先に心が死んでしまうだろうな…と思うのです。
その、最後まで何をすることだけは譲れないか、というのはそれこそ本当に人それぞれだと思うのですが、著者のこの「書きたい」という気持ちは私には本当によくわかって、染みました…
しかし小倉千加子の解説の無意味さは耐えがたかった。特に最後のブロックの意味不明さはひどすぎると私は思いました。天国で著者は喜んでいないと思うなあ…
私は『グイン・サーガ』のアタマ30冊ほどを読んだことがある程度の(ほかに数冊は読んでいると思うのですが…そして『小説道場』は指南書としてとても出来がいいと思った記憶はあるのですが)、ファンだとはとても言えない読者でした。
なんか著者が自作とかキャラクターのパロディをやっちゃう感じが、読者やファンの領域を侵しているようで、そんなことを著者本人がやっちゃったらこちらの立つ瀬がないじゃん…みたいに感じてげんなりしたんですよね。まあ私も若かった…
私より15歳年長なだけの、同世代と言っていい同性の作家で、エラそうですが近親憎悪みたいなものもあったのでしょう。
自分が人生初入院を経験したばかりということもあって、文庫になっていたのでふらふらと読み始めてしまいました。
闘病記としては『アマゾネスのように』『ガン病棟のピーターラビット』など先行するものがあるようですが未読です。そして絶筆がこの作品となりました。
これは自宅に戻っていて、検査や治療に通院しながら闘病しているころの日記なので、私のような入院中に処置が終ってきれいさっぱり戻ってきた、という体験とはまた違うし、病状のレベルももちろん全然違うものなのですが、やはり完全に健康体でいたころ読んだのとは違う感覚で今回は読んだかな、と思います。
痛いのがとにかくつらい、とか。痛くて眠れないのがつらい、とか。食べたいのに吐いちゃうし下しちゃうしで食べられない栄養が取れないのがつらい、とか。
少しだけでも散歩に出たい、太陽の光を浴びたい、とか。おいしいものを食べに出かけたい、おしゃれして買い物に行きたい、とか。友達と会いたい、おしゃべりしたい、とか。
すごくわかりました。
一方でもちろん全然違うところもあって…
私は独身で夫も子供もいず、そして両親とも健在でそんなにストレスのない関係を築けていると思っていて、トラウマとかは全然ない。
ダイエットはしたことあるし成功したり失敗したりしているわけですが、摂食障害になったことはないし、お酒も好きですがアルコール中毒になったこともない。
そしておそらくそんなにお金の苦労をしたことがない、少なくとも何千万円もの借金を背負い込んだことはない。
要するに平々凡々たる人間なわけです。
苦労したから才能に恵まれたのか、そういうことではないものなのか、それはわかりませんが…
とにかくこの著者は母親に対して屈託があるし、でも家族だからあたりまえかもしれませんが未だにマンションの隣同士で住んでいて食事はしょっちゅう行き来していて、けれど本人は「団欒」が苦痛で仕方がない。
でも50年以上暮らしているというのに嫌なことが嫌だと言えないし、嫌でなくなるということもないというこの業の深さ。
それでも母親に対し夫に対し成人した息子に対し家庭の主婦役を務めようとして、自分は食べられない食事をきちんきちんと作ろうとする姿勢はいっそすさまじい。
粘着質の記録魔である感じも、「こりゃ生きづらい性格だよな…」と思えてしまう。
イヤ本当にだからこそ作家として大成したのかもしれませんし、当人がそれで幸せだったか不幸だったかはたとえ本人がこういうところでどう書いていようと本人にしかわからないことなのですが…
読んでいる分には、つらい。周りにいたお友達なんかはなおさら見ていてつらかったろうなあ、と思いました。
夫とは愛し合い支え合っていたようで、その交情は美しく、そもそもは不倫だったそうですがそれが問題になっている様子はないので、これはいいのですが…
でも結局は夫の入院のストレスが著者の命を縮めたように私には読めました。
夫が入院して、そちらの手術は順調に済んで、でも著者は欝になってしまって、発熱して入院して、あっという間に検査の数値が悪くなって、昏睡状態になってわずか10日で永眠。夫の入院からきっかり一か月後のことです。怖い。
それくらい愛し頼り依存していたのでしょう。
そしてそれと同じくらい、著者はとにかく書くことに依存していた。それはわかります。
私は常々、たとえば何かの病気がわかって余命宣告みたいなものがなされた日には、仕事は好きですがしかしすぐさま会社を辞めて、毎日劇場と漫画喫茶に通って観たい芝居を観て読みたい漫画と小説を読んで、その感想をブログなりツイッターなりに書いて、たまに反応がもらえたりして、そういうことをし続けていって死にたい、とか考えていました。
それくらい、フィクションを愛すること、それを観たり読んだりして味わうこと、それについて考えること、その考えを述べて誰かに反応してもらうこと、が生きる支えになっている。今までもそればかりして生きてきた。
何かを創作する力量は私にはない。でも何かを感じる感覚はある、それを誰かに聞いてもらいたいしできれば共有してもらえたりすると嬉しい。そういうコミュニケーションは欲している。
それができないとなると、体より先に心が死んでしまうだろうな…と思うのです。
その、最後まで何をすることだけは譲れないか、というのはそれこそ本当に人それぞれだと思うのですが、著者のこの「書きたい」という気持ちは私には本当によくわかって、染みました…
しかし小倉千加子の解説の無意味さは耐えがたかった。特に最後のブロックの意味不明さはひどすぎると私は思いました。天国で著者は喜んでいないと思うなあ…
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