『天(そら)は赤い川のほとり』の原作漫画について、私は「天河」と略して「てんかわ」と読む派なのですが、こう略して「そらかわ」と読む派もいるようですし、「天赤」と略して「てんあか」「そらあか」と読む派もいるようですね。かつて宝塚歌劇で韓国ドラマ『太王四神記』が舞台化されたとき、一部で花組版が「花ペ」、星組再演版が「星ペ」と呼ばれたりしたことがあったのですが(一応説明しますと、韓国ドラマの主演俳優がペ・ヨンジュンだったからです)、その流れからか今回の宙組での舞台版を「宙赤」(読みは「そらあか」かな?)と呼んでいる方がいらっしゃるようなので、それもいいなと思って今回のタイトルはそこに乗っかってみました。
要するに、原作ファンは「どうしてこうなっちゃったのかな…?」と思い原作未読ファンは「細かいところがよくわからない…」といずれも脚本に不満を感じている方が少なくないようなので、言っても詮ないことではありますが、個人的に「もっとこうだったらよかったんじゃないのかなー」と思ったことをねちねち語りたい、という回です。よかったらおつきあいください。
演目発表と、トップトリオの配役発表はセット…でしたっけ? それとものちにまずトップトリオの配役が出て、あとは集合日発表でしたっけね?
ともあれ、カイルがゆりかちゃんでユーリがまどかにゃん、ってのはあたりまえだとして、二番手男役のキキちゃんがラムセス、というのもごく順当な配役ですよね。もちろん原作漫画の長い物語のどこを切り取るか、という考え方次第でキキちゃんの役をどこに持っていくかにはいろんなアイディアがありえたかと思いますが、フツーに考えて、敵国の武将でありカイルの良きライバルであり恋敵、というキャラクターとしてラムセスを取り上げ、二番手に演じさせる、というのは宝塚歌劇として正しい配置だと思います。主人公の仇役としてのナキアをピックアップしてキキちゃんに女装させる…とかの変化球も、まあ発想としてはなくはなかったと思いますが(^^;)、組替えデビュー公演でもありますし、まずは男役として正統派にきちんとカッコよく、おいしいところをさせてあげるのが当然でしょう。
そのあとの配役は、それこそ原作漫画からどうエピソードを切り出しどう物語を紡ぐか、というプランに深く関わる問題かと思います。生徒の持ち味や組でのポジションなんかをいろいろ考えると、たとえば私だったら、三番手の愛ちゃんをザナンザ、四番手のずんちゃんをルサファ、あっきーをキックリかイル・バーニ、黒太子はりんきらあたりにした…かなあ? ナキアやウルヒ、三姉妹はママ、りくはカッシュかな?
で、ザナンザやルサファがユーリに惚れちゃって一悶着、というエピソードを拾う。要するに、このあたりをもっと主役カップルにきちんと絡む大きな役にします。カッシュについては、ウルスラを出す尺まではない…とやはり判断するかと思います。
逆にマッティワザってちゃんと描こうとするとかなり尺を取るキャラクターだと思うので、あえて脇に下げたいです。ネフェルティティはゆいちゃんにして、ふたりの子役も使わず、ネフェルティティはマッティワザの回想シーンに出る程度にします。
現行の配役で行くなら、やはりまずは愛ちゃんマッティワザをもっと大きな役にしたいです。なのでやはりナディアはいてほしいところだけどなー、ららたんとかにやらせたいなー。。あと、ナキアとウルヒの子役はともかく、こってぃの子役マッティワザと夢白ちゃんタトゥーキアはやはりなくして、回想場面をあき愛でやった方が俄然盛り上がると思います。舞台の手前に愛ちゃんマッティが立っていて、姉との日々を思い出す、ないしユーリやナディアに語るような場面があって、舞台奥の石段の上、なんなら紗幕の向こうにあっきーネフェルティティが立っていて、「愛しているわマッティ、私を忘れないで…!」「姉上…!」ってやるだけで、ファンは萌えるしある意味満足するしあとは勝手に補完すると思うんですよね(イヤ実際にやられていたらせめて幕上げろって騒ぐ自分しか見えませんが。でも演出としてはこれで正しいと思うし残念ながらコレ、至極やりがちですよね?)。
ネフェルティティの出番は本来ならこれだけでもおかしくないくらいなんですよ。後半も、もし出すなら、今のようにユーリと対峙するよりもむしろ、ラムセスを鞭打つ場面を入れた方がよかったんじゃないかなー。キキちゃんを鞭打つあっきー! たぎるね!! ってのもあるけれど、トップ娘役相手ではなく二番手相手の場面にした方が、演目全体のためによかったろうと思うのです。そこになんかうまいことカイルをやってこさせて、ヒッタイトに立ち向かうためにはネフェルティティとしてもラムセスに戦ってもらうしかなくて彼を解放せざるをえなくて…っていうような流れにして、あとはカイルとラムセスの銀橋一騎打ちになだれ込む!とかでいいんだと思うんです。胸像の話は、なくしても話の大筋には問題ないんですよ残念ながら。この彫像が今なお現存し、片目の謎は解明されていない…ってことは舞台では描ききれていないのですから、人によっては今だって「それがなんだっつーの?」ってなっちゃってると思うんですよね…(><)
宝塚歌劇なんだから、女性キャラクターをあれこれ立てるより、まずは路線スターが演じる男性キャラクターをしっかり立てるべきなんです。何より主役ね! それができて初めて、周りのキャラに手を広げてもいい。
キキちゃんラムセスに関してはとてもいいと思うのです。だからあとは原作の、たとえばザナンザがナキアに操られてユーリを襲ってしまい…みたいなくだりも、ルサファがユーリにあこがれるあまりに…みたいなくだりも、なんとか尺を作って入れたいところです。とにかく三番手、四番手スターの役の出番、活躍の場をもう少し増やしたいし、主役のカイルやユーリともう少し絡む、しどころのあるものにしたい。
そのために、ネフェルティティの出番が減っても仕方ないと思います。主人公の仇役としてはナキアがいるんだから、もうひとりの女王としてのネフェルティティをあんなに立てなくてもいいのです。ナキアとはまた違った生き方をしてきた女として、彼女をさらにキャラクターとしてきちんと描くことは、どちらとも似ず新たな道を切り開くユーリ、というヒロイン像を立てることにもちろんなるのですが、何度か言っていますが少女漫画を宝塚歌劇化する場合はヒロインではなくとにかくヒーローを立てるように改変しないといけないのです。大多数のファンが観たいものはそれなのですから。
もちろん両方できるのが理想に決まっています。でもまずは、トップ娘役ではなくトップスターが、ユーリではなくカイルが常に目立つように、素敵に見えるように、カイルが活躍するように展開を変えないといけないのです。
ティトに関する改変は素晴らしいなと思ったんですよね。あれは要するに、原作でウルスラがユーリに対してやったエピソードをティトがカイルに対してやるよう移しているのです。これは正しい。タロスから鉄の生成法を伝授されるのも、ユーリからカイルに変更しました。これも正しい。
同様に、主人公としてカイルを立てライバルとしてはナキアひとりを立て(ラムセスとは最終的には講和を結ぶので)、だからラストでユーリがナキアに礼を言うくだりもカイルがナキアに言う…とした方が、効果が出ると思うんですよねー。自分を殺そうとし続けてきた女を許し、愛する女と出会わせてくれたことに礼を言う…それは彼の度量の広さや潔さ、人間としての大きさを示す、印象的な場面になったと思うのです。
これだけでもかなりスッキリして、でもワケわからんってことはなくて、舞台だけでも楽しめるしかつ原作漫画も読みたくなる…みたいになったと思うんだけどなー。どーかねなーこたん?
私がこんなに言うのは、期待していたからです。間に月組の『カンパニー』という小説原作の演目を挟むとはいえ、この短期間にほぼ連続して同一版元の、しかしかなりタイプの違う少女漫画原作の演目が舞台化される…!ということに、とても大きな意義を感じていたからです。
私自身は、世代的にも『ポー』派です。でも、みりおの少年性とかリアル・エドガー感を別にしても、宝塚歌劇版のあの家族押しとか愛押し、「未練」というワードや大老ポーを死なせたこと、その霊魂があるとしたことなどのイケコ脚本・演出の解釈違いには疑問点も多く、完全無欠の舞台化だったとはとても言えないと個人的には思っています。でもまずまずちゃんとしていたし、おもしろかったし、美しかったし、一般受けもいい。各界の評判も上々です。
私は原作者自身が友人知人の作家やいわゆる文化人枠の人々をアテンドしているらしいのをとても微笑ましく見ていました。そうでもされないと意外と宝塚歌劇を観ない人って多いと思うし、ポーだから、原作者に声かけられたからってんで重い腰を上げて、「意外といいじゃん」って思ってくれてよかったよって吹聴してくれる、その効果たるや絶大のものがあると思っています。なんとはなしの食わず嫌いや女子供の学芸会と馬鹿にする風潮が弱まるだろうと思うのです。
もちろん彼らの中にも、たとえ一度観ただけであっても、宝塚歌劇の豪華さや美しさに流されることなく、イケコ版ポーの瑕瑾に気づき、内心眉をひそめた人もいることでしょう。そりゃいるよ、クリエイターをなめたらあかん。
でも原作者に同伴されてたらそんなこと公言しないし、まずは目新しい体験ができたことを喜んでみせている、ということもあると思うのです。とにかく宝塚歌劇というものの認知が広がることはめでたい。自分の作品も舞台化してもらいたいとか、いつか舞台化してもらえるような作品を書こうとか、そういう夢がクリエイターたちの中に芽吹いているかもしれないわけでしょう? それは宝塚歌劇の未来や可能性が広がることにつながると思います。
もちろん本来は宝塚歌劇は当て書き新作オリジナル脚本・演出主義で行くべきなんですけれどね。でもいろんなものを巻き込み飲み込み、より大きくなっていってもらいたいとも思っているのです。だからポーが一部にかもしれないけれどディープ・インパクトを残せたのだとしたら、それはとても大きいことだと思うのです。
そしてそれ以上のことを、私は『宙赤』には望んでいたのです。
「花とゆめ」はちょっと別にするとして、「Sho-Comi」と「マーガレット」という月二回刊の少女漫画雑誌は、主に中学二年生の女子をターゲットにした作品を量産していて、たとえ100年後にも読み継がれているというタイプの名作は産まなくとも、今このときこの世代の女子の大多数の心を捕らえ、彼女たちのニーズにフィットするということに腐心した作品作りをして、この層の読者の絶大な支持を集めています。
多くの人がその世代でそうした作品群に心奪われたことがあるにもかかわらず、残念ながら大人になると卒業し、そうした作品の存在すら忘れていってしまうものです。そして今、世の評論家はほとんどが男性で女性は少なく、そして彼ら彼女らは今でも「週刊少年ジャンプ」を読んでいることはあっても、女子中学生向け月二回刊誌を読むことはほぼないでしょう。だからこれらに掲載される作品群は、どれだけ売れていようとどれだけ年若い読者の支持を集めていようと無視されることが多い。
『天河』もそんな一作です。「読んでいました、大好きでした!」と声を上げるのは今の30代前半かな? でも彼女たちですら、かつて愛読した掲載誌の今の人気連載タイトルをひとつとして挙げられないでしょう。それは当然かもしれない、でも評論家にとっては違うだろうと私は言いたい。目くらい通せよ、存在くらい知っておけよと言いたい。巻数が違うこともあるけれど、発行部数で言ってたら『ポーの一族』より『天河』の方が断然売れています。なのにスルーで恥ずかしくないのか?と言いたい。
だから、舞台版に関しても、『天河』の方が『ポー』よりものすごーくよくできていて、従来からの原作ファンにもそうでない人にも大ウケして、人気大爆発!となってほしかった。やっぱコレだよね、タカラヅカって少女漫画ってエンタメってメジャーってこういうのだよね!となってほしかったし、なんでこういうのがオリジナル脚本でできないの? 宝塚歌劇ってホント駄目だよね! とまでなってほしかった。世間一般の人は未だタカラヅカと言えば『ベルばら』、ってなイメージなのでしょうがそれだって漫画原作なワケだし、一般的なミュージカル・ファンに知られているところでやっと『エリザ』『スカピン』『ロミジュリ』? それは全部海外ミュージカルの翻案ですから、借り物にすぎませんから!
精神的な親和性として、エンターテインメントの志向として、昨今の流行り廃りとして、直近の可能性として、『ポー』より『天河』の舞台化の方が宝塚歌劇として優れていた、となってほしかった。その可能性は全然あったと私は思っています。
なーこたんにはそれだけの期待をかけていいと私には思えた。『アメリカン・パイ』から観ていますが、そういうこととは別に。『アリスの恋人』に心震えてすげー暑苦しいお手紙を書いちゃったこともありますが、そういうこととは別に。
でも、何故、こうなっちゃったんだろう…?
劇団から依頼された仕事であり、本人がやりたい!と言い出した舞台化ではなかったとは思っています。台湾公演の準備で忙しかったのかもしれないとも理解しています。
でももっとできたやろう…というがっかり感が否めない。手抜き感、やっつけ仕事感を正直感じる。そこが私は悲しいのでした。贔屓がフィーチャーされるのは嬉しいけど、かえって作品を壊しているだろーが、その責めを負わせるとか勘弁してくれよ…とかいうのともまったく別に、私は憤っているのです、悲しいのです、残念で仕方がないのです。こんなはずではなかったと言いたいのです。今からでもなんとかなるならしてくれと言いたいのです。
…という、恨みつらみの話だったのでした。オチがなくてすみません。でもきっとそれとは別に楽しく通っちゃいはするんですよコレがまた。節操なくてホントすみません。まあ贔屓公演に関してはつまらないなら観なきゃいい、って選択肢がないからな! そこがつらいところではありますよね。
でも好きだから、期待しているから、より高みを目指せると思うから、ごちゃごちゃ言うのです。
役者の演技はどんどん進化して芝居を埋めています。でも大元の脚本・演出が変わらないとどうにもならない部分は大きいからさ…
今回がダメなら、次から、もっと完成稿にする前に誰かに見せて広い視野や客観的な意見を取り入れるシステムを構築するとか、組織として考えていっていただきたいです。単純な事実誤認や言葉の誤用とかももっとチェックできるはずです。クオリティを上げる努力をしてほしい。生徒はあんなにも真面目に、必死に、日々上手くなろう美しくなろうとしているのだから。
応えてあげていただきたいのです。より良い作品を、切に願っています。
要するに、原作ファンは「どうしてこうなっちゃったのかな…?」と思い原作未読ファンは「細かいところがよくわからない…」といずれも脚本に不満を感じている方が少なくないようなので、言っても詮ないことではありますが、個人的に「もっとこうだったらよかったんじゃないのかなー」と思ったことをねちねち語りたい、という回です。よかったらおつきあいください。
演目発表と、トップトリオの配役発表はセット…でしたっけ? それとものちにまずトップトリオの配役が出て、あとは集合日発表でしたっけね?
ともあれ、カイルがゆりかちゃんでユーリがまどかにゃん、ってのはあたりまえだとして、二番手男役のキキちゃんがラムセス、というのもごく順当な配役ですよね。もちろん原作漫画の長い物語のどこを切り取るか、という考え方次第でキキちゃんの役をどこに持っていくかにはいろんなアイディアがありえたかと思いますが、フツーに考えて、敵国の武将でありカイルの良きライバルであり恋敵、というキャラクターとしてラムセスを取り上げ、二番手に演じさせる、というのは宝塚歌劇として正しい配置だと思います。主人公の仇役としてのナキアをピックアップしてキキちゃんに女装させる…とかの変化球も、まあ発想としてはなくはなかったと思いますが(^^;)、組替えデビュー公演でもありますし、まずは男役として正統派にきちんとカッコよく、おいしいところをさせてあげるのが当然でしょう。
そのあとの配役は、それこそ原作漫画からどうエピソードを切り出しどう物語を紡ぐか、というプランに深く関わる問題かと思います。生徒の持ち味や組でのポジションなんかをいろいろ考えると、たとえば私だったら、三番手の愛ちゃんをザナンザ、四番手のずんちゃんをルサファ、あっきーをキックリかイル・バーニ、黒太子はりんきらあたりにした…かなあ? ナキアやウルヒ、三姉妹はママ、りくはカッシュかな?
で、ザナンザやルサファがユーリに惚れちゃって一悶着、というエピソードを拾う。要するに、このあたりをもっと主役カップルにきちんと絡む大きな役にします。カッシュについては、ウルスラを出す尺まではない…とやはり判断するかと思います。
逆にマッティワザってちゃんと描こうとするとかなり尺を取るキャラクターだと思うので、あえて脇に下げたいです。ネフェルティティはゆいちゃんにして、ふたりの子役も使わず、ネフェルティティはマッティワザの回想シーンに出る程度にします。
現行の配役で行くなら、やはりまずは愛ちゃんマッティワザをもっと大きな役にしたいです。なのでやはりナディアはいてほしいところだけどなー、ららたんとかにやらせたいなー。。あと、ナキアとウルヒの子役はともかく、こってぃの子役マッティワザと夢白ちゃんタトゥーキアはやはりなくして、回想場面をあき愛でやった方が俄然盛り上がると思います。舞台の手前に愛ちゃんマッティが立っていて、姉との日々を思い出す、ないしユーリやナディアに語るような場面があって、舞台奥の石段の上、なんなら紗幕の向こうにあっきーネフェルティティが立っていて、「愛しているわマッティ、私を忘れないで…!」「姉上…!」ってやるだけで、ファンは萌えるしある意味満足するしあとは勝手に補完すると思うんですよね(イヤ実際にやられていたらせめて幕上げろって騒ぐ自分しか見えませんが。でも演出としてはこれで正しいと思うし残念ながらコレ、至極やりがちですよね?)。
ネフェルティティの出番は本来ならこれだけでもおかしくないくらいなんですよ。後半も、もし出すなら、今のようにユーリと対峙するよりもむしろ、ラムセスを鞭打つ場面を入れた方がよかったんじゃないかなー。キキちゃんを鞭打つあっきー! たぎるね!! ってのもあるけれど、トップ娘役相手ではなく二番手相手の場面にした方が、演目全体のためによかったろうと思うのです。そこになんかうまいことカイルをやってこさせて、ヒッタイトに立ち向かうためにはネフェルティティとしてもラムセスに戦ってもらうしかなくて彼を解放せざるをえなくて…っていうような流れにして、あとはカイルとラムセスの銀橋一騎打ちになだれ込む!とかでいいんだと思うんです。胸像の話は、なくしても話の大筋には問題ないんですよ残念ながら。この彫像が今なお現存し、片目の謎は解明されていない…ってことは舞台では描ききれていないのですから、人によっては今だって「それがなんだっつーの?」ってなっちゃってると思うんですよね…(><)
宝塚歌劇なんだから、女性キャラクターをあれこれ立てるより、まずは路線スターが演じる男性キャラクターをしっかり立てるべきなんです。何より主役ね! それができて初めて、周りのキャラに手を広げてもいい。
キキちゃんラムセスに関してはとてもいいと思うのです。だからあとは原作の、たとえばザナンザがナキアに操られてユーリを襲ってしまい…みたいなくだりも、ルサファがユーリにあこがれるあまりに…みたいなくだりも、なんとか尺を作って入れたいところです。とにかく三番手、四番手スターの役の出番、活躍の場をもう少し増やしたいし、主役のカイルやユーリともう少し絡む、しどころのあるものにしたい。
そのために、ネフェルティティの出番が減っても仕方ないと思います。主人公の仇役としてはナキアがいるんだから、もうひとりの女王としてのネフェルティティをあんなに立てなくてもいいのです。ナキアとはまた違った生き方をしてきた女として、彼女をさらにキャラクターとしてきちんと描くことは、どちらとも似ず新たな道を切り開くユーリ、というヒロイン像を立てることにもちろんなるのですが、何度か言っていますが少女漫画を宝塚歌劇化する場合はヒロインではなくとにかくヒーローを立てるように改変しないといけないのです。大多数のファンが観たいものはそれなのですから。
もちろん両方できるのが理想に決まっています。でもまずは、トップ娘役ではなくトップスターが、ユーリではなくカイルが常に目立つように、素敵に見えるように、カイルが活躍するように展開を変えないといけないのです。
ティトに関する改変は素晴らしいなと思ったんですよね。あれは要するに、原作でウルスラがユーリに対してやったエピソードをティトがカイルに対してやるよう移しているのです。これは正しい。タロスから鉄の生成法を伝授されるのも、ユーリからカイルに変更しました。これも正しい。
同様に、主人公としてカイルを立てライバルとしてはナキアひとりを立て(ラムセスとは最終的には講和を結ぶので)、だからラストでユーリがナキアに礼を言うくだりもカイルがナキアに言う…とした方が、効果が出ると思うんですよねー。自分を殺そうとし続けてきた女を許し、愛する女と出会わせてくれたことに礼を言う…それは彼の度量の広さや潔さ、人間としての大きさを示す、印象的な場面になったと思うのです。
これだけでもかなりスッキリして、でもワケわからんってことはなくて、舞台だけでも楽しめるしかつ原作漫画も読みたくなる…みたいになったと思うんだけどなー。どーかねなーこたん?
私がこんなに言うのは、期待していたからです。間に月組の『カンパニー』という小説原作の演目を挟むとはいえ、この短期間にほぼ連続して同一版元の、しかしかなりタイプの違う少女漫画原作の演目が舞台化される…!ということに、とても大きな意義を感じていたからです。
私自身は、世代的にも『ポー』派です。でも、みりおの少年性とかリアル・エドガー感を別にしても、宝塚歌劇版のあの家族押しとか愛押し、「未練」というワードや大老ポーを死なせたこと、その霊魂があるとしたことなどのイケコ脚本・演出の解釈違いには疑問点も多く、完全無欠の舞台化だったとはとても言えないと個人的には思っています。でもまずまずちゃんとしていたし、おもしろかったし、美しかったし、一般受けもいい。各界の評判も上々です。
私は原作者自身が友人知人の作家やいわゆる文化人枠の人々をアテンドしているらしいのをとても微笑ましく見ていました。そうでもされないと意外と宝塚歌劇を観ない人って多いと思うし、ポーだから、原作者に声かけられたからってんで重い腰を上げて、「意外といいじゃん」って思ってくれてよかったよって吹聴してくれる、その効果たるや絶大のものがあると思っています。なんとはなしの食わず嫌いや女子供の学芸会と馬鹿にする風潮が弱まるだろうと思うのです。
もちろん彼らの中にも、たとえ一度観ただけであっても、宝塚歌劇の豪華さや美しさに流されることなく、イケコ版ポーの瑕瑾に気づき、内心眉をひそめた人もいることでしょう。そりゃいるよ、クリエイターをなめたらあかん。
でも原作者に同伴されてたらそんなこと公言しないし、まずは目新しい体験ができたことを喜んでみせている、ということもあると思うのです。とにかく宝塚歌劇というものの認知が広がることはめでたい。自分の作品も舞台化してもらいたいとか、いつか舞台化してもらえるような作品を書こうとか、そういう夢がクリエイターたちの中に芽吹いているかもしれないわけでしょう? それは宝塚歌劇の未来や可能性が広がることにつながると思います。
もちろん本来は宝塚歌劇は当て書き新作オリジナル脚本・演出主義で行くべきなんですけれどね。でもいろんなものを巻き込み飲み込み、より大きくなっていってもらいたいとも思っているのです。だからポーが一部にかもしれないけれどディープ・インパクトを残せたのだとしたら、それはとても大きいことだと思うのです。
そしてそれ以上のことを、私は『宙赤』には望んでいたのです。
「花とゆめ」はちょっと別にするとして、「Sho-Comi」と「マーガレット」という月二回刊の少女漫画雑誌は、主に中学二年生の女子をターゲットにした作品を量産していて、たとえ100年後にも読み継がれているというタイプの名作は産まなくとも、今このときこの世代の女子の大多数の心を捕らえ、彼女たちのニーズにフィットするということに腐心した作品作りをして、この層の読者の絶大な支持を集めています。
多くの人がその世代でそうした作品群に心奪われたことがあるにもかかわらず、残念ながら大人になると卒業し、そうした作品の存在すら忘れていってしまうものです。そして今、世の評論家はほとんどが男性で女性は少なく、そして彼ら彼女らは今でも「週刊少年ジャンプ」を読んでいることはあっても、女子中学生向け月二回刊誌を読むことはほぼないでしょう。だからこれらに掲載される作品群は、どれだけ売れていようとどれだけ年若い読者の支持を集めていようと無視されることが多い。
『天河』もそんな一作です。「読んでいました、大好きでした!」と声を上げるのは今の30代前半かな? でも彼女たちですら、かつて愛読した掲載誌の今の人気連載タイトルをひとつとして挙げられないでしょう。それは当然かもしれない、でも評論家にとっては違うだろうと私は言いたい。目くらい通せよ、存在くらい知っておけよと言いたい。巻数が違うこともあるけれど、発行部数で言ってたら『ポーの一族』より『天河』の方が断然売れています。なのにスルーで恥ずかしくないのか?と言いたい。
だから、舞台版に関しても、『天河』の方が『ポー』よりものすごーくよくできていて、従来からの原作ファンにもそうでない人にも大ウケして、人気大爆発!となってほしかった。やっぱコレだよね、タカラヅカって少女漫画ってエンタメってメジャーってこういうのだよね!となってほしかったし、なんでこういうのがオリジナル脚本でできないの? 宝塚歌劇ってホント駄目だよね! とまでなってほしかった。世間一般の人は未だタカラヅカと言えば『ベルばら』、ってなイメージなのでしょうがそれだって漫画原作なワケだし、一般的なミュージカル・ファンに知られているところでやっと『エリザ』『スカピン』『ロミジュリ』? それは全部海外ミュージカルの翻案ですから、借り物にすぎませんから!
精神的な親和性として、エンターテインメントの志向として、昨今の流行り廃りとして、直近の可能性として、『ポー』より『天河』の舞台化の方が宝塚歌劇として優れていた、となってほしかった。その可能性は全然あったと私は思っています。
なーこたんにはそれだけの期待をかけていいと私には思えた。『アメリカン・パイ』から観ていますが、そういうこととは別に。『アリスの恋人』に心震えてすげー暑苦しいお手紙を書いちゃったこともありますが、そういうこととは別に。
でも、何故、こうなっちゃったんだろう…?
劇団から依頼された仕事であり、本人がやりたい!と言い出した舞台化ではなかったとは思っています。台湾公演の準備で忙しかったのかもしれないとも理解しています。
でももっとできたやろう…というがっかり感が否めない。手抜き感、やっつけ仕事感を正直感じる。そこが私は悲しいのでした。贔屓がフィーチャーされるのは嬉しいけど、かえって作品を壊しているだろーが、その責めを負わせるとか勘弁してくれよ…とかいうのともまったく別に、私は憤っているのです、悲しいのです、残念で仕方がないのです。こんなはずではなかったと言いたいのです。今からでもなんとかなるならしてくれと言いたいのです。
…という、恨みつらみの話だったのでした。オチがなくてすみません。でもきっとそれとは別に楽しく通っちゃいはするんですよコレがまた。節操なくてホントすみません。まあ贔屓公演に関してはつまらないなら観なきゃいい、って選択肢がないからな! そこがつらいところではありますよね。
でも好きだから、期待しているから、より高みを目指せると思うから、ごちゃごちゃ言うのです。
役者の演技はどんどん進化して芝居を埋めています。でも大元の脚本・演出が変わらないとどうにもならない部分は大きいからさ…
今回がダメなら、次から、もっと完成稿にする前に誰かに見せて広い視野や客観的な意見を取り入れるシステムを構築するとか、組織として考えていっていただきたいです。単純な事実誤認や言葉の誤用とかももっとチェックできるはずです。クオリティを上げる努力をしてほしい。生徒はあんなにも真面目に、必死に、日々上手くなろう美しくなろうとしているのだから。
応えてあげていただきたいのです。より良い作品を、切に願っています。
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