シアタークリエ、2015年7月8日ソワレ。
1914年、ロンドン。ミュージック・ホールのかつての人気者で今や落ちぶれた老芸人のカルヴェロ(石丸幹二)は、元舞台女優のオルソップ夫人(保坂知寿)が大家を務めるフラットで酒浸りの日々を送っていた。ある日カルヴェロは、ガス自殺を図ったバレリーナのテリー(野々すみ花)を助ける。テリーは、自分にバレエを習わせるために姉が街娼をしていたことにショックを受け、脚が動かなくなっていた…
原作・音楽/チャールズ・チャップリン、上演台本・作詞・訳詞/大野裕之、演出/荻田浩一、音楽・編曲/荻野清子。1952年の同名映画を世界初の舞台化した音楽劇、全二幕。
私は恥ずかしながらチャップリンの映画を観たことがなく、「人生に必要なのは愛と勇気とほんの少しのお金」(「勇気と想像力と~」という訳もありますね、原文はなんなんだろう?)という有名な台詞(格言?)やいくつかの有名なテーマソングしか知りませんでした。ただただスミカ見たさに出かけたのですが、実はちょっと、みんながあのチャップリンを!とか言うわりには古臭くてつまんないんじゃないかとか作り手側が心酔しているほどには普遍性がないのではないかとか、こっそり思っていました。
下り坂の老芸人と、これから上りつめていく若く美しいバレリーナの物語。そら男は女に惚れるよね、しかし彼女はどうだろう? そこで描かれるドラマは単に男に都合のいい、現代女性が観たら思わず「ケッ」とか言いたくなっちゃうシロモノにならないか? などと観ながらアレコレ考えていたら、ネヴィル(良知真次)が登場したので、ああいわゆる『オペラ座の怪人』構造なのかな、とも考えるようになりました。男は女を救い女は男を尊敬するようになる、男は女を愛するが女が愛するのは若い方の男で…みたいな。
でも、そういうお話ではありませんでした。テリーが愛したのはカルヴェロでした。それはただの尊敬とか敬愛、感謝や恩義を愛情だと勘違いしたものなどではなく、真摯に純粋に捧げられかつ相手にもそれを求めた真実の恋で、それはテリーのストレートなプロポーズに表れていました。何よりテリーを演じるスミカがまっすぐでひたむきでいじらしくて、本心からの恋だということがよくわかりました。
テリーは確かにネヴィルとの再会を喜びました、彼の音楽で踊ることでより輝きました。しかし彼女をそこまで導き支え助けてくれたのはカルヴェロであり、彼の優しさや男らしさに彼女はすでに恋していたのです。彼が慈しんでくれるから愛を返す、のではなく、あくまで自主的に、心から。年齢などに関係なく。
でもカルヴェロにとってはそれは本当に意外なことだったのでしょう。ネヴィルの出現にショックを受けつつもテリーのために喜ぶことに決めた矢先のテリーからの告白、みたいなものでしたからね。自分は年寄りで、五度も結婚歴があって、心臓を病んでいて、売れていない芸人で、彼女の想いに応えられるような身ではない。
何より最初は、カルヴェロは彼女の愛を信じられなかったのでしょう。恩を感じてくれるのはありがたいがそれを愛情と勘違いしているだけだ、と考えたことでしょう。やがて彼女の本気に気づきますが、だからってやっぱり応えられない。自分に自信がないから、自分を哀れんでいるから、自分のプライドの方が大事だから、うまくいかなくてみじめになりたくないから。
と、私には見えました。
わかるよ、そういうふうに考えるのは。でもスミカは、テリーは、こんなにも心を捧げてくれあなたを求めているというのに、そうやって自分ばっかり守って背を向けて、結果的に相手を深く傷つけて、卑怯だよどうするの? どうなるのこの話?
と、いつしかすっかりのめりこんで舞台の行く末を見守っていました。それまではわりと、ゆひすみで現役時代にバウホールとかでやればよかったのに、とか考えていたりしたのに。
カルヴェロはやはり舞台人として、自分にはもう出演する場所がないのにテリーにはある、ということが耐えがたかったのでしょう。愛とか男女とか年齢とか芸のジャンルの違いとかでは、その思いは払拭されなかったのでしょう。嫉妬、焦燥、渇望が、テリーの愛に応えることを邪魔したのでしょう。カルヴェロはまず芸人であって、彼女を愛するただのひとりの男にはなれなかったのです。
だから逃げた。そして場末のカフェで流しの芸人をした。彼女から離れないと自分が守れなかったのです。
その間にテリーとネヴィルの間に新しい恋が生まれる…ということには、しかし、なりませんでした。
ネヴィルは、テリーが回想の歌を歌うときに現れたようなイケイケの二枚目などではなく、むしろシャイで押しの弱い青年でした。恋に恋していたころのテリーが夢見ていた青年とは違っていたのです。テリー自身も、カルヴェロへの愛に目覚めて大人になっていたのでしょう。これでネヴィルがグイグイいくタイプだったらまた違っていたのかもしれませんが、そういうことにはなりませんでした。
最初は初対面のふりをしたテリーが、本当のことを告げてネヴィルと旧交を温め合い、しかしそれ以上のものは生まれなかったとき、私はますますこの話はどうオチるんだろう…と困惑しました。綺麗な道筋が想定できなくて、テリーのためにもスミカのためにももう泣きそうでした。
カルヴェロの芸は、古くても最後には観客の心をつかんだのでしょうか? それともアンコールもお義理で、でもそこで歌われた歌こそがみんなの心を打ったのでしょうか? ともあれカルヴェロは久々のスポットライトと喝采に酔い、それがさらに心臓に負担をかけ、命を縮めることになったのでしょう。でも彼は満足だったことでしょう。
カルヴェロがこときれる前に、テリーは舞台に出ていきました。出番だから。舞台人だから。待っている観客がいるから。愛する人の死に目に会えなくても、愛する人と田舎に家を買って暮らす平穏な未来が手に入らなくても、彼女は踊る。バレリーナだから。舞台があるから。舞台に望まれているから。
絶命したカルヴェロが横たわる舞台袖の長椅子の周りがまず暗くなり、けれどテリーは明るい舞台で踊り続け、やがてその舞台も暗くなっていき、淡く灯っていた楽屋の化粧台の灯りが最後に消えて、物語は終わりました。号泣。
ライムライト、それはライム(石灰)を使ってスターを照らした照明のこと。今でいうスポットライト、転じて「名声」。でも原作映画が作られた時代にも、物語が設定された時代にももはやそれは古いものだったようです。そんなノスタルジックなタイトルをつけられた、しかし永遠に普遍性を持つ不朽の名作だと思いました。号泣。
確かにふたりは愛し合っていたのに、それを確かめ合うことはできなかった。愛に生きる幸せで平凡な暮らしを送ることはできなかった。彼らは共に舞台に魅せられた者だったから…それはおそらく当人たちにも選べないものなのです。愛こそはすべて、と世に言われたりするというのに、そうではないことがあるという残酷な真実を突きつける、美しくも恐ろしい名作だと思いました。震えました。
小さなカンパニーが無限にいろいろな役になって作る鮮やかな舞台は、いかにもオギーっぽい。
保坂さんはさすがでした。その他の出演者もみんな素晴らしかったです。上品で緊密で、いくぶんゆったりには感じましたが冗長には思わない、宝石のような作品でした。
スミカがいい舞台、いい役に恵まれてよかった。もちろんそうしたのはスミカの実力なのかもしれないけれど。一幕前半、ただベットでうだうだ寝ているだけのスミカが本当に本当に可愛くてもうメロメロでした。ピュアで繊細でちょっとエキセントリックですらある少女から、愛を知った大人の女性へ…号泣。
みっちりお稽古したというバレエも素晴らしかったです。ロマンチック・チュチュが似合うこと…! 歌も台詞の声ももちろんしっとりと美しい。堪能しました。
スミカがブログに書いていた言葉どおりの、シンプルで、壊れやすそうな、神聖な作品を、舞台に作り出してくれて、ありがとうございました。
1914年、ロンドン。ミュージック・ホールのかつての人気者で今や落ちぶれた老芸人のカルヴェロ(石丸幹二)は、元舞台女優のオルソップ夫人(保坂知寿)が大家を務めるフラットで酒浸りの日々を送っていた。ある日カルヴェロは、ガス自殺を図ったバレリーナのテリー(野々すみ花)を助ける。テリーは、自分にバレエを習わせるために姉が街娼をしていたことにショックを受け、脚が動かなくなっていた…
原作・音楽/チャールズ・チャップリン、上演台本・作詞・訳詞/大野裕之、演出/荻田浩一、音楽・編曲/荻野清子。1952年の同名映画を世界初の舞台化した音楽劇、全二幕。
私は恥ずかしながらチャップリンの映画を観たことがなく、「人生に必要なのは愛と勇気とほんの少しのお金」(「勇気と想像力と~」という訳もありますね、原文はなんなんだろう?)という有名な台詞(格言?)やいくつかの有名なテーマソングしか知りませんでした。ただただスミカ見たさに出かけたのですが、実はちょっと、みんながあのチャップリンを!とか言うわりには古臭くてつまんないんじゃないかとか作り手側が心酔しているほどには普遍性がないのではないかとか、こっそり思っていました。
下り坂の老芸人と、これから上りつめていく若く美しいバレリーナの物語。そら男は女に惚れるよね、しかし彼女はどうだろう? そこで描かれるドラマは単に男に都合のいい、現代女性が観たら思わず「ケッ」とか言いたくなっちゃうシロモノにならないか? などと観ながらアレコレ考えていたら、ネヴィル(良知真次)が登場したので、ああいわゆる『オペラ座の怪人』構造なのかな、とも考えるようになりました。男は女を救い女は男を尊敬するようになる、男は女を愛するが女が愛するのは若い方の男で…みたいな。
でも、そういうお話ではありませんでした。テリーが愛したのはカルヴェロでした。それはただの尊敬とか敬愛、感謝や恩義を愛情だと勘違いしたものなどではなく、真摯に純粋に捧げられかつ相手にもそれを求めた真実の恋で、それはテリーのストレートなプロポーズに表れていました。何よりテリーを演じるスミカがまっすぐでひたむきでいじらしくて、本心からの恋だということがよくわかりました。
テリーは確かにネヴィルとの再会を喜びました、彼の音楽で踊ることでより輝きました。しかし彼女をそこまで導き支え助けてくれたのはカルヴェロであり、彼の優しさや男らしさに彼女はすでに恋していたのです。彼が慈しんでくれるから愛を返す、のではなく、あくまで自主的に、心から。年齢などに関係なく。
でもカルヴェロにとってはそれは本当に意外なことだったのでしょう。ネヴィルの出現にショックを受けつつもテリーのために喜ぶことに決めた矢先のテリーからの告白、みたいなものでしたからね。自分は年寄りで、五度も結婚歴があって、心臓を病んでいて、売れていない芸人で、彼女の想いに応えられるような身ではない。
何より最初は、カルヴェロは彼女の愛を信じられなかったのでしょう。恩を感じてくれるのはありがたいがそれを愛情と勘違いしているだけだ、と考えたことでしょう。やがて彼女の本気に気づきますが、だからってやっぱり応えられない。自分に自信がないから、自分を哀れんでいるから、自分のプライドの方が大事だから、うまくいかなくてみじめになりたくないから。
と、私には見えました。
わかるよ、そういうふうに考えるのは。でもスミカは、テリーは、こんなにも心を捧げてくれあなたを求めているというのに、そうやって自分ばっかり守って背を向けて、結果的に相手を深く傷つけて、卑怯だよどうするの? どうなるのこの話?
と、いつしかすっかりのめりこんで舞台の行く末を見守っていました。それまではわりと、ゆひすみで現役時代にバウホールとかでやればよかったのに、とか考えていたりしたのに。
カルヴェロはやはり舞台人として、自分にはもう出演する場所がないのにテリーにはある、ということが耐えがたかったのでしょう。愛とか男女とか年齢とか芸のジャンルの違いとかでは、その思いは払拭されなかったのでしょう。嫉妬、焦燥、渇望が、テリーの愛に応えることを邪魔したのでしょう。カルヴェロはまず芸人であって、彼女を愛するただのひとりの男にはなれなかったのです。
だから逃げた。そして場末のカフェで流しの芸人をした。彼女から離れないと自分が守れなかったのです。
その間にテリーとネヴィルの間に新しい恋が生まれる…ということには、しかし、なりませんでした。
ネヴィルは、テリーが回想の歌を歌うときに現れたようなイケイケの二枚目などではなく、むしろシャイで押しの弱い青年でした。恋に恋していたころのテリーが夢見ていた青年とは違っていたのです。テリー自身も、カルヴェロへの愛に目覚めて大人になっていたのでしょう。これでネヴィルがグイグイいくタイプだったらまた違っていたのかもしれませんが、そういうことにはなりませんでした。
最初は初対面のふりをしたテリーが、本当のことを告げてネヴィルと旧交を温め合い、しかしそれ以上のものは生まれなかったとき、私はますますこの話はどうオチるんだろう…と困惑しました。綺麗な道筋が想定できなくて、テリーのためにもスミカのためにももう泣きそうでした。
カルヴェロの芸は、古くても最後には観客の心をつかんだのでしょうか? それともアンコールもお義理で、でもそこで歌われた歌こそがみんなの心を打ったのでしょうか? ともあれカルヴェロは久々のスポットライトと喝采に酔い、それがさらに心臓に負担をかけ、命を縮めることになったのでしょう。でも彼は満足だったことでしょう。
カルヴェロがこときれる前に、テリーは舞台に出ていきました。出番だから。舞台人だから。待っている観客がいるから。愛する人の死に目に会えなくても、愛する人と田舎に家を買って暮らす平穏な未来が手に入らなくても、彼女は踊る。バレリーナだから。舞台があるから。舞台に望まれているから。
絶命したカルヴェロが横たわる舞台袖の長椅子の周りがまず暗くなり、けれどテリーは明るい舞台で踊り続け、やがてその舞台も暗くなっていき、淡く灯っていた楽屋の化粧台の灯りが最後に消えて、物語は終わりました。号泣。
ライムライト、それはライム(石灰)を使ってスターを照らした照明のこと。今でいうスポットライト、転じて「名声」。でも原作映画が作られた時代にも、物語が設定された時代にももはやそれは古いものだったようです。そんなノスタルジックなタイトルをつけられた、しかし永遠に普遍性を持つ不朽の名作だと思いました。号泣。
確かにふたりは愛し合っていたのに、それを確かめ合うことはできなかった。愛に生きる幸せで平凡な暮らしを送ることはできなかった。彼らは共に舞台に魅せられた者だったから…それはおそらく当人たちにも選べないものなのです。愛こそはすべて、と世に言われたりするというのに、そうではないことがあるという残酷な真実を突きつける、美しくも恐ろしい名作だと思いました。震えました。
小さなカンパニーが無限にいろいろな役になって作る鮮やかな舞台は、いかにもオギーっぽい。
保坂さんはさすがでした。その他の出演者もみんな素晴らしかったです。上品で緊密で、いくぶんゆったりには感じましたが冗長には思わない、宝石のような作品でした。
スミカがいい舞台、いい役に恵まれてよかった。もちろんそうしたのはスミカの実力なのかもしれないけれど。一幕前半、ただベットでうだうだ寝ているだけのスミカが本当に本当に可愛くてもうメロメロでした。ピュアで繊細でちょっとエキセントリックですらある少女から、愛を知った大人の女性へ…号泣。
みっちりお稽古したというバレエも素晴らしかったです。ロマンチック・チュチュが似合うこと…! 歌も台詞の声ももちろんしっとりと美しい。堪能しました。
スミカがブログに書いていた言葉どおりの、シンプルで、壊れやすそうな、神聖な作品を、舞台に作り出してくれて、ありがとうございました。
あ、お手紙書かなくては…!!
雪組、明日遠征して参ります。
泣けなかったらどうしよう…という不安(笑)。
すぐ何かしら書くか、東京まで待つか、それもまた分かれ目です。
自分が何を思うか楽しみです!
●駒子●
私も、すみ花を見るためにクリエに出かけました。
本当に美しい役に恵まれて良かったと思いました。
およそこの世の生き物とは思えない、華奢で可憐なすみ花だけを見つめていました。
という訳で、振りかえると舞台全体に関する感想があまり出てこなくて、良い観客ではなかったかも。
雪組大劇場公演初日と21日朝昼の3公演観てきました。
物語、演出、演技、全てが素晴らしく、一言で言えなくらい深く感動しました。
その話は改めて…。