世田谷パブリックシアター、2018年9月16日13時。
巨大地震、大津波、そしてそれに伴う原発事故。そこから遠くもない海辺のコテージに移り住んだ夫婦。そこへ数十年ぶりに女友達が訪ねてきた。人生の後半にさしかかった3人の元物理学者は…
作/ルーシー・カークウッド、翻訳/小田島恒志、演出/栗山民也。2016年ロンドン初演の福島原発事故をモデルとした全一幕の戯曲、日本初演。
黄色い防護服姿のキャスト3人の宣伝写真がなかなかに鮮烈でしたが、作品はコテージの一室を舞台にしたワンシチュエーションの会話劇です。ヘイゼルとロビンの夫婦が高畑淳子と鶴見辰吾、訪ねてきたローズが若村麻由美。いずれ劣らぬ素晴らしい役者さんによる3人芝居でした。
私は若村麻由美が好きでお友達に誘われて飛びついたのですが、白髪交じりの老女に近い中年女の役で、これまたなかなかに驚きました。というか彼らはみんなリタイアした65歳かそこらの役なのだけれど、役者の実年齢ももう少し若いので、そこはちょっと私は混乱しました。作者が30歳ごろに書いた作品で、私は50手前で、役者たちはもう5歳ほど年長で、キャラクターはさらにもう10歳ほど年長だということなので。後半生の生き方を探る身としては、その五年、十年の差はセンシティブで大きな問題なのよ?と思えたのです。
これはイギリスの戯曲だけれど、明らかに東日本大震災と福島の原発事故に着想を得た作品で、今、日本の劇場で日本人俳優によって日本の観客に向けて日本語で上演されています。そのねじれというか不思議な奇妙さを、私は少し受け止めきれなかったのかもしれません。震災当時、私は当日半日仕事にならなかったくらいで週明けから普通に出社して働いていましたし、街が暗いのに心寂しく感じた程度で、ほぼなんの被災もしていない人間です。大学ではたまたま物理学を専攻していて、それより前に原子爆弾とか原発の仕組みを勉強したときには、これは人間には扱いかねるエネルギーだろうと思い素朴に原発反対派になりましたが、なんの運動も起こしたことはなく、また自分が日々使う電力が現状どれくらい原子力に依存しているのかも把握していないような駄目人間です。福島のことをきちんと自分事として考えられていない、と言っていいと思います。
作者は、引退した作業員や技術者たちが原発の処理に向かった実際の出来事に感銘を受けてこの物語を書き、「イギリス人の多くがこの芝居の結末を冷酷なものと感じるでしょう」「こんなのは幼稚なファンタジーだというご意見もあるでしょう」とプログラムで語っていますが、そういうことより、私は、私がローズのような歳で、死に至る病を抱えていて、結婚していなくて子供も持っていなくて、かつて発電所で働いていて今もそこでできる仕事があって求められていたとして、だから自らの責任として、未来に生きる子供たちの代わりに自分が死を賭して働きに戻る…という選択を、おそらくしない、としか思えなかったのでした。そしてそう考えたことにやや打ちのめされもしました。
でも、私は多分自分にもっと甘ちゃんで、全然崇高なんかじゃなくて、自分が死んだあとの日本や地球のことなんてあとは野となれ山となれ、と思っているところが、あるのだと思うのです。引き継ぐべき子供はいないし甥も姪もいない。強いて心当たりがあるとすれば友達の子供だけれど、そこまで責任を負いたくない、と逃げてしまう心情があるのです。私は十分働いた、自分の仕事をした、この先働くべきなのは若い人で、自分はあとはゆっくり余生を過ごすだけなのだから、自分の好きなことをして暮らしたい、誰かのために犠牲になって再度働くとかは、おそらく自分にはできないししたくない、と思ってしまったのでした。
でもこの3人は原発に戻るのでしょう。そういう人間たちです。幼稚だなんて全然思いませんし、むしろあるべき姿だろうと思います。でも自分にはできそうにない…そこに打ちひしがれたのでした。
舞台は、それが正義だとか理想だとか義務だとか押しつけることなく、静かに終わります。それこそ波が引くように。
また途中、なんの話かさっぱりわからなくなって、所詮は男女の痴話喧嘩の話なのか?みたいに思えるのも、いい。所詮は人の営みの話だからです。その中で、男女ともにある性愛へのゆるさや、はたまた女同士のシスターフッドみたいなものが語られるのもいい。とても素敵な作品で、役者もみんなとても達者でした。
「今ならわかる。世界が完全に崩壊しないためには、わたしたち、ただ欲しいからって何もかも手に入れるわけにはいかないんだって」
プログラムにもエピグラフのように抽出されている印象的な台詞です。でも、つい、そんなに何もかも欲しがってなんかないよ?と言いたくなってしまう私なのでした。
「ただとても、難しいって言うか、分からないの、どうすれば、多くを望まないでいられるか」
そんなに多くを望んでなんかいないよ? それでも駄目?と言いたくなってしまう。その甘さが地球をこうしたのだと、突きつけられているのになお、です。バブリーな育ちだからなあ…というのはおそらく言い訳なのでしょう。我がこととして引き受けて、考えなければなりませんよね。わかってはいる、わかっているつもりではある、のだけれど…と、ふと途方に暮れた気も、したのでした。
ところで、このやりっぱなし感みたいなものは題材が今日的なものだから成立しているのであって、この戯曲を20年後にただこのままやったら『サメと泳ぐ』の「で?」感になるんだよな、と思いました。オヤ同じ劇場の公演でしたね…イヤ、プロデュース先が全然違うんですけれどね。
閑話休題。
巨大地震、大津波、そしてそれに伴う原発事故。そこから遠くもない海辺のコテージに移り住んだ夫婦。そこへ数十年ぶりに女友達が訪ねてきた。人生の後半にさしかかった3人の元物理学者は…
作/ルーシー・カークウッド、翻訳/小田島恒志、演出/栗山民也。2016年ロンドン初演の福島原発事故をモデルとした全一幕の戯曲、日本初演。
黄色い防護服姿のキャスト3人の宣伝写真がなかなかに鮮烈でしたが、作品はコテージの一室を舞台にしたワンシチュエーションの会話劇です。ヘイゼルとロビンの夫婦が高畑淳子と鶴見辰吾、訪ねてきたローズが若村麻由美。いずれ劣らぬ素晴らしい役者さんによる3人芝居でした。
私は若村麻由美が好きでお友達に誘われて飛びついたのですが、白髪交じりの老女に近い中年女の役で、これまたなかなかに驚きました。というか彼らはみんなリタイアした65歳かそこらの役なのだけれど、役者の実年齢ももう少し若いので、そこはちょっと私は混乱しました。作者が30歳ごろに書いた作品で、私は50手前で、役者たちはもう5歳ほど年長で、キャラクターはさらにもう10歳ほど年長だということなので。後半生の生き方を探る身としては、その五年、十年の差はセンシティブで大きな問題なのよ?と思えたのです。
これはイギリスの戯曲だけれど、明らかに東日本大震災と福島の原発事故に着想を得た作品で、今、日本の劇場で日本人俳優によって日本の観客に向けて日本語で上演されています。そのねじれというか不思議な奇妙さを、私は少し受け止めきれなかったのかもしれません。震災当時、私は当日半日仕事にならなかったくらいで週明けから普通に出社して働いていましたし、街が暗いのに心寂しく感じた程度で、ほぼなんの被災もしていない人間です。大学ではたまたま物理学を専攻していて、それより前に原子爆弾とか原発の仕組みを勉強したときには、これは人間には扱いかねるエネルギーだろうと思い素朴に原発反対派になりましたが、なんの運動も起こしたことはなく、また自分が日々使う電力が現状どれくらい原子力に依存しているのかも把握していないような駄目人間です。福島のことをきちんと自分事として考えられていない、と言っていいと思います。
作者は、引退した作業員や技術者たちが原発の処理に向かった実際の出来事に感銘を受けてこの物語を書き、「イギリス人の多くがこの芝居の結末を冷酷なものと感じるでしょう」「こんなのは幼稚なファンタジーだというご意見もあるでしょう」とプログラムで語っていますが、そういうことより、私は、私がローズのような歳で、死に至る病を抱えていて、結婚していなくて子供も持っていなくて、かつて発電所で働いていて今もそこでできる仕事があって求められていたとして、だから自らの責任として、未来に生きる子供たちの代わりに自分が死を賭して働きに戻る…という選択を、おそらくしない、としか思えなかったのでした。そしてそう考えたことにやや打ちのめされもしました。
でも、私は多分自分にもっと甘ちゃんで、全然崇高なんかじゃなくて、自分が死んだあとの日本や地球のことなんてあとは野となれ山となれ、と思っているところが、あるのだと思うのです。引き継ぐべき子供はいないし甥も姪もいない。強いて心当たりがあるとすれば友達の子供だけれど、そこまで責任を負いたくない、と逃げてしまう心情があるのです。私は十分働いた、自分の仕事をした、この先働くべきなのは若い人で、自分はあとはゆっくり余生を過ごすだけなのだから、自分の好きなことをして暮らしたい、誰かのために犠牲になって再度働くとかは、おそらく自分にはできないししたくない、と思ってしまったのでした。
でもこの3人は原発に戻るのでしょう。そういう人間たちです。幼稚だなんて全然思いませんし、むしろあるべき姿だろうと思います。でも自分にはできそうにない…そこに打ちひしがれたのでした。
舞台は、それが正義だとか理想だとか義務だとか押しつけることなく、静かに終わります。それこそ波が引くように。
また途中、なんの話かさっぱりわからなくなって、所詮は男女の痴話喧嘩の話なのか?みたいに思えるのも、いい。所詮は人の営みの話だからです。その中で、男女ともにある性愛へのゆるさや、はたまた女同士のシスターフッドみたいなものが語られるのもいい。とても素敵な作品で、役者もみんなとても達者でした。
「今ならわかる。世界が完全に崩壊しないためには、わたしたち、ただ欲しいからって何もかも手に入れるわけにはいかないんだって」
プログラムにもエピグラフのように抽出されている印象的な台詞です。でも、つい、そんなに何もかも欲しがってなんかないよ?と言いたくなってしまう私なのでした。
「ただとても、難しいって言うか、分からないの、どうすれば、多くを望まないでいられるか」
そんなに多くを望んでなんかいないよ? それでも駄目?と言いたくなってしまう。その甘さが地球をこうしたのだと、突きつけられているのになお、です。バブリーな育ちだからなあ…というのはおそらく言い訳なのでしょう。我がこととして引き受けて、考えなければなりませんよね。わかってはいる、わかっているつもりではある、のだけれど…と、ふと途方に暮れた気も、したのでした。
ところで、このやりっぱなし感みたいなものは題材が今日的なものだから成立しているのであって、この戯曲を20年後にただこのままやったら『サメと泳ぐ』の「で?」感になるんだよな、と思いました。オヤ同じ劇場の公演でしたね…イヤ、プロデュース先が全然違うんですけれどね。
閑話休題。