駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

藤原旭『忍べよ!ストーカー』(祥伝社オンブルーコミックス)

2018年09月24日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名は行
 丹葉国領主の嫡男・獅之介に助けられて以来、存在を悟られないようひっそりと見守る日々を過ごしてきた抜け忍の紅丸。しかし刺客から獅之介を守ったことで、しばらく屋敷に留まることになる。堂々と傍らにいていいはずが、邪魔をするのは染みついた悲しきストーカーの習性…スパダリ領主×スゴ腕忍者のぐいぐいラブ。

 タイトルが秀逸だと思います。要するに、忍びなのに忍べてない、ストーカー気質な愛の圧が強い、ってことなんですけど、もうホント楽しくニマニマ読んじゃいました。
 獅之介はスパダリというより単なる天然かなとも思いますが、その素直さ、まっすぐさがまた良くて。そしてヒロイン(笑)の紅丸がまた、女々しいくらい粘着質で自己評価が低くて面倒くさくていじらしくて可愛いのです。真面目な話をすると、要するにこれを少女漫画で女性キャラクターでやられたら本当にしんどいわけで(不当に自己評価を低くさせられている女性が未だに多い世の中だから、です)、でもそれが男性キャラでBLでやられると気にならなくなるというマジックがあるわけですね。私は以前はLGBT差別がなくなればBLの流行りは去る(必要性がなくなる)のではと思っていたのですが、ちょっと違って実はむしろ女性差別がなくならない限りその逃避としてのBLの需要は減らないのではないかな、と考えるようになりました。
 まあでもそんな難しい話はナシにしても、おもろいラブコメなので気になった方はゼヒ。アップが多くてカメラワークに工夫がなく、コマの中での状況の見せ方が下手なのは気になりますが(編集者がネームで指導してないのかなー)、出てくるキャラがみんないい味出しているし、襖とか障子とかをすぱーんと開けるギャグが妙にツボり、お気に入りの一冊となりました。愛蔵します。



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『マイ・フェア・レディ』

2018年09月24日 | 観劇記/タイトルま行
 シアターオーブ、2018年9月20日18時。

 ロンドンの下町。貧しい花売り娘のイライザ(この日は朝夏まなと)は、言語学者ヒギンズ教授(この日は寺脇康文)のもとで、訛りの矯正と淑女になるための礼儀作法を教わることになるが…
 脚本・歌詞/アラン・ジェイ・ラーナー、音楽/フレデリック・ロウ、翻訳・訳詞/G2。ジョージ・バーナード・ショウの戯曲『ピグマリオン』を原作に、1956年に初演されたミュージカル。日本初演は1963年、2013年には演出を一新。その新キャスト版。全2幕。

 まとぶん、きりやん版の感想はこちら
 石原さとみのイライザで観た『ピグマリオン』の感想はこちら
 前宙組トップスター、まぁ様の女優デビュー作となりました。ダブルキャストのさーやのも観たかったんだけど日程の都合がつかず、残念でした。
 装置の出し入れがお洒落なのが好きです。でも、そもそももはやレトロなミュージカルだから仕方ないのかもしれませんが、各ナンバーがやや冗長かな。そんなにダンサブルでもないので、今の観客は飽きちゃうと思うんですよね…というか休憩込み3時間15分ってやっぱ長いって(><)。そうそうたいした話じゃないんだからさ。
 さて、まぁ様は笑顔がキュートで仕草がラブリーで、まっすぐでいじらしくとても可愛らしいイライザでした。女優になっても長い腕が素敵で本当に雄弁で、身のこなしが綺麗。そしてソプラノも問題なく、綺麗に歌えていて感心しました。ストプレもいいかもしれないけれどまずはミュージカルでがっつりがんばっていってほしいなあ、年末の公演も楽しみです。
 さてしかし、イライザがいいだけに、またキャストも一新されているだけに、何故男性陣は続投組が多いのか、そんなに役者の層が薄いのか、そして前回上演時からさらに時代が進みもはやMe Too時代の今このときにこの作品を上演するというのに演出になんら手が加わっているように見えないのはこれでいいのか、という疑問はやはり湧きました。
 たとえば、ヒギンズがもっとめちゃくちゃハンサムだったらまた違うのかもしれません。顔が良ければいいのかよ、と特に男性からはつっこまれそうですが、人間性が最低なんだから顔くらい良くして出てこいよ、と言いたいです。だいたいなんでヒロインにばかり美貌が求められてその相手役たる男優はただ男だというだけでよしとされがちなのか皆目わかりません。男が美人が好きだというなら女だって美男が好きなんです、あたりまえでしょ?
 あるいは、容姿は関係ないというならイライザをピッカリング大佐(相島一之)とくっつけるべきですよね。だって彼は紳士ですもん。ヒギンズに比べて小太りのおじさんに描かれがちなピッカリングですが、それこそ容姿は関係ないとされているんだったらハゲでデブだろうが関係ないはずなんです。彼は親切で優しく、差別をせず偏見を持たず、イライザをまっとうに扱いまっとうに相対してくれます。彼女が相手に求めているのは「まっとうに扱われること」ただそれだけです。それすらできずにフレディ(平方元基)と結婚すればいいとかしか言えないヒギンズが馬鹿で愚鈍で視野が狭く偏見に凝り固まったしょうもない男なんです。
 当時の男性なんてみんなそんなもの、という認識が根底にあるのはわかっています。でもそれは昔の作品だからで、それをそのまま今やっても意味がない。そういう男性特有の甘えを許していても何もいいことなんかない、と我々は学習してきたではないですか。古い革袋に新しい酒を仕込んでこそこの現代に上演する意味があるというものでしょう(用法、ちょっと違うかな?)。今やるならそのまま『ピグマリオン』になるべきで、イライザは愛はなくともフレディとさっさと結婚して店員として働くことなんかすっ飛ばしてさっさと花屋の経営を始めるのが自然で、ヒギンズは取り残されて呆然となってちゃんちゃん、でしょう。それをこんなふうに少女漫画展開にしたいなら、もっとていねいに「恋」を導かなければなりません。
 具体的には、大使館での舞踏会です。ドレスアップして異性と踊る、ザッツ・少女漫画なシチュエーションなんですから、ここでヒギンズとイライザにもっときちんとときめかせなければならないのです。学習の成果が発揮されて意気揚々で興奮したふたりがその胸の高鳴りのまま踊ったら恋に落ちないわけがないじゃないですか。というか今もそのつもりで演出されているのかもしれませんが、全然弱い。ふたりとも単に成功に酔いしれダンスを楽しんでいるようにしか見えません。それじゃ駄目なの、ああここでこのふたりが本当に恋に落ちたんだな、と観客にわからせないと駄目なの。イライザも、ヒギンズもです。
 特にヒギンズね。なんかイライザが可愛く見えるな、いやドレスアップしているんだから綺麗なのは当然なんだけど、それにしてもいやこんなに可愛い子だったっけな、なんだこの動揺は…と動揺するそぶりとかを見せてほしいし、彼女がパートナーチェンジでピッカリングや大使の息子と踊ってたりしたらやきもきしちゃってすぐ奪いにいっちゃうとかしてほしい。いつもはお義理で嫌々出席していたダンスパーティーだけれど、こんなに楽しいのは初めてだ、なんなんだろうな? いや成功したからか、だよな、それだけだよな、うん…みたいにむりやり自分を納得させようとする独り言があるとか、ベタだろうがなんだろうがとにかくわかり易くそういうくだりを追加しないと駄目ですよ。
 で、そのまま無理に自分を納得させて、イライザのことなんか好きじゃない気にもならない、と思い込んだヒギンズが、帰宅してピッカリングと自分の教育の成果のことだけ誇りイライザを無視し、彼女を褒めもねぎらいもしないから、イライザはキレるんじゃないですか。がんばったのは自分なのに、ダンスのときはあんなに楽しかったのに、目と目で通じ合えたように思えたのに、やっと対等の位置に立てたと思えたのに…しょせん彼は猿回しで自分は猿にすぎなかったのか、という絶望。女として以前に人としてすら認めてもらえないことへの怒りと悲しみに打ちのめされて、彼女はこの家を出て行くことを決心するんじゃないですか。恋心ごと葬る気持ちで住み慣れた街に戻り、しかしそこにももはや自分の居場所はない…
 そういう流れがあって、それでもヒギンズの方はそういう偏見というか思い込みに凝り固まったしょうもない男だからなかなか素直になれず、母親の家でイライザと話し合う機会が持てても話し合いにすらならない。このとき観客に「でもヒギンズってチャーミングな男だよね」って十分に思わせておけないと、「もう、そうじゃないでしょヒギンズ!? ああ、イライザもわかってあげて~」って悶えながらこの場面を観る、ってならないじゃん。今、「うん、イライザが正しい、ヒギンズが悪い。そんな男捨てて次に行こう、次に」としか思えません。そのあとヒギンズがフレディばりに通りで歌って後悔しようと、今さら遅いよ馬鹿じゃないの関係ないよ、としか思えません。だからラスト、ヒギンズがあいかわらずスリッパを探していてそれをイライザが差し出したからってなんだっつーのふたりとも馬鹿じゃないのあーあガッカリ、ってなりかねません。
 でも駄目でしょ? 観客を「ふたりともよかったね、お幸せにね」って感涙にむせばせなきゃ駄目でしょ? それができていないんだから芝居が破綻している、演出が失敗しているということなんですよ。
 あ、感涙した方にはすみません。でも全然知らないで観たら「え? これでいいの?」ってなる方の方が多いと思う。私があちこちで聞くのは「そういう話なんだから仕方ないんだろうけど、でもヒギンズってヤな男でなんでイライザが惚れるのかわからん」という感想ばかりです。だからせめてもっとイケメン配役にするとかしてくれないと帳尻が合わない、と言っているのです。
 寺脇さんは「普通の男」を実に上手く演じてくれていると思います。上流階級の、ちょっと勉強ができて女性の相手や社交が苦手な、変わり者とされることで許されてわがまま放題になっている、要するに基本的にはどこにでもいる普通の男、ってことですよねヒギンズって。人を人とも思わぬ傲慢な愚か者、汝の名は男、ってなもんです。
 でも、普通の男が、こんなにまっすぐで真面目で一生懸命で美しく愛らしい女性に何もせず好かれる、なんて幻想はそろそろ捨てさせた方がいい。それは嘘だし、今や男性自身をも苦しめています。人は人としてきちんと生き相手のことも人としてきちんと認めてこそ相手からも人として認められるのであり、愛だの恋だのはその先の話です。ただ男として漫然と生きているだけで美女に好かれるなんてことがありえないなんて、当然のことなのです。
 イライザは貧しかろうと、多少口の利き方がなってなかろうと、それは生まれのせいであって彼女の責任ではないのだし、そこから変わろうと自分で行動を起こした勇気ある女性です。特権階級の中でちょっとばかり得意だった勉強をこね回してきただけで安住しているヒギンズなんかより、彼女の方が明らかに人間として立派なのです。そこをきちんと描かないと駄目。その上で、それとは別に恋に落ちちゃうこともある…というのが素敵に描けるならそれは素敵にファンタジーだし、ロマンチック・ラブコメディになりえるでしょうが、きつい言い方をしますが今は単なるレトロな、現代に生きる女性観客がおっさんの幻想につきあわされている気持ちになるだけの演目になってしまっている気がします。
 それではあまりにもったいない。いくらでもアップデートできる題材だと思うだけにもったいないです。
 人は変われる、そして幸せになれる、というメッセージを作品を通して発信していくことはとてもとても大事なことだと思うのです。世知辛く、滅亡に向けてひた走りに走っているような現代においてはなおさら。もう平成も終わるのですから、次の上演のときにはぜひ検討してみていただきたいです。それか、また別の演出家でやってください。元々の戯曲や契約の関係でそこまでは手を入れられないのだ、ということなら、過去の遺物としてそっと忘れていくことにしましょう。間違った幻想は毒です。ファンタジーにはいいものと悪いものとがあるのです。そのことも、エンタメ業界の人間は知っていなければなりません。売れればいい、ウケればいいということではない。真摯に向き合っていっていただきたいです。
 役者はみんな好演していただけに、あえて、そこは強く、言っておきたいです。







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