時は平安。男らしい姉・沙羅双樹と女らしい弟・睡蓮は入れ替わった性のまま運命に翻弄されていき…衝撃のトランスセクシャル・ストーリー。
雑誌でもパラパラと読んではいましたが、連載が完結しコミックス最終巻も出たので一気読みしてみました。原作は未読。平安時代末期に書かれたと言われる、作者不詳の物語だそうですね。確かに『源氏物語』の影響は色濃く感じられますが、そこに自分なりの萌えを投下してオリジナルなものを作っているのが見事です。それが今で言う男装女子とか男の娘とかBLとかに通じている、というのもすごい。てか日本人のDNAすごい、1000年前からやってること一緒(笑)。そしてそれを現代視点からある程度整理し、理解しやすく読み替えて描かれたのがこの漫画なのでしょう。
何度か言っていますが私は月二回刊の少女漫画雑誌「少女コミック」(現「Sho-Comi」)をまったく通ってこなかった漫画読みなので、さいとうちほ作品もある程度大人になってから勉強しました。好きだったのは『花冠のマドンナ』や『花音』とかかなあ。愛蔵しているのは『銀の狼』と『子爵ヴァルモン』だけです。前者は宝塚歌劇の作品をコミカライズして「宝塚グラフ」に掲載していたものをまとめたコミックスですし、後者は『仮面のロマネスク』の原作『危険な関係』のコミカライズ作品ですから、どちらも宝塚関連作品としての所蔵ですね。
つまり、端整で丁寧で繊細な絵柄でデッサン的にもしっかりしているのだけれど、私にはやや整いすぎていて味気なく思え、またキャラクターの心理描写やキャラクター同士の関係性に重きを置くことが多い少女漫画にしては珍しく、むしろストーリーテリングの方に興味があるタイプの作家で、結果的にキャラクターが類型的にまた大味になることが多く、簡単に言うと「萌えない」…というのが、今までの私のこの作家への評価だったのでした。
でも、この作品は、金脈を当てた気がします。先日始まった新連載も同じ系統のお話のようですし、そちらも当たるといいなと思っています。なんと言っても性別逆転というギミックそのものが萌えなので、それを体現するキャラクター自体が多少記号的すぎようと十分に萌えられるのです。これは大きい。
美麗な絵柄なのでキャラクターがそもそも中性的であり、その性別の描き分け方もまたそもそもかなり記号的です。私が漫画の描き方を覚えた教則本では、まあ素人はたいてい一種類の顔しか描けないものなのだけれど、それでも眉を太く首を太くすれば男顔になるし下まつげまできちんと描けば女顔になる、みたいなことを教えていましたが、この作家の画風にもちょっとそんなところがあります。加えてもちろん上手すぎるくらい上手いので、表情とかでも性別や性格が表せられる。だから主人公の男女ふたりがまず絵としてきちんと描き分けられていて、この入れ替わりで混乱する物語をしっかり成立させているのです。これはすごい。
そう、物語の主人公はふたり、権大納言のふたりの妻に同時期にそれぞれ生まれた、活発で凜々しい姉の沙羅双樹姫と、引っ込み思案で泣き虫の弟の睡蓮の若君です。顔はそっくり、性格は正反対。家族は見分けがつくけれど、周りはどっちが姉だか弟だか姫だか若君だか混乱してしょっちゅう取り違えている。やがてその評判は帝にまで届き、出仕させるよう言われて…女の沙羅双樹の方が男装し元服し帝の侍従となって男性として働いていくことになり、男の睡蓮は女装して裳着をすませ、のちに立った女東宮の内侍となって女性として生きていくことになります。
このふたりを、同じ童禿のときから異性装をするようになってもどっちがどっちかちゃんとわかるように描けているのがまず見事。そしてこの話がおもしろいのは、そうやって性を逆転させて働き始めたふたりだけれど、実はトランスセクシャルではなくてむしろトランスジェンダーであり、性指向としてはヘテロセクシャルだったことが恋と性愛の訪れによって明らかになっていくところです。これは私にはけっこうリアルに思えました。
本当は、自分をどっちの性だと思うか、ということと、どっちの性の相手を好きになるかということはあまり関係ないことなのかもしれません。でも世間的にはシスジェンダー・ヘテロセクシャルがマジョリティだから、そういうふうに組み込まれていってしまう、というところもあるのでしょう。ふたりは自分や世界というものがまだ曖昧模糊としていた子供の世界から、とりあえずおちつく性で世間に出て周りと交わっていくうちに、自分の真の性や恋や人生を見つけていくことになるのでした。
沙羅双樹は侍従として楽しく凜々しく働き、宮廷の女房たちからは可愛らしい美しいと大モテだけれど、自身は女房たちにそうした興味はまったく持てなくて、誰がいいの誰とどうしたのと騒ぐ同僚男性たちの話にもうまくまざれない。そこへ右大臣家の四の姫との縁談が持ち上がり、いろいろあって受け入れざるをえなくなったものの、結婚しても姫とは手をつないで眠るだけです。ペニスがないから性交できない、というより、男として生きていても男として女を好きになることはないとわかった、と言いましょうか。そうこうするうちにこれまたいろいろあって、同僚の石蕗に女と見抜かれ、なかばレイプされてあまつさえ妊娠させられてしまい、行方知れずになるという形で宮廷を去らざるをえなくなる…
これらの事態と平行して、沙羅双樹の恋心はお仕えする東宮のち帝に敬愛のような形から発動を始めるのですが、それはまさしく「平行して」であって、性交や妊娠を通して体が無理矢理変えられるのとほとんど同時に、という感じに進みます。それまで初潮は迎えていても心は童で性もほぼ未分化だったものが、体が変えられてしまうことで心が育つということなのか…沙羅双樹は女にさせられ、女として生きざるをえなくさせられてしまうのです。
それを悲しい、虚しい、不当だ、かわいそうだ、と見る向きもあるかもしれません。でもこの物語では主人公はあくまで前向きです。妊娠が死産に終わったのち、いろいろあって、沙羅双樹は弟の睡蓮と入れ替わり、今度は女装して、というかそもそも女性なのだから表現としては本来の性となって、という方が正しいのかもしれませんが、とにかく睡蓮の内侍として再び出仕を始めます。
一方の睡蓮の方は、そもそもが男性だからか、外部から力尽くで何かをなされ変化を強いられる、ということはありませんでした。けれど女東宮の近くで懸命に働くうちに、けなげでいじらしい女東宮を愛しく思うようになり、抱きしめ、キスをしてしまう…やがて帝から入内を求められ、そもそもが男なので断らざるをえず、となると宮廷にいられない。そしていろいろあって姉の沙羅双樹と入れ替わり、今度は男装し本来の性となって、右大将として再び出仕することになるのです。姉弟ふたりで帝と東宮を守り、ともに仕えるために。
一連の展開に際し、石蕗というザッツ・男なキャラクターの存在がまた効いています。彼は同僚の沙羅双樹をまず好もしく思い、そっくりだという姉の睡蓮を紹介してくれとねだり、でもいざ睡蓮に近づくと、異性センサーが働かないということなのか心がときめかない。むしろセンサーは沙羅双樹の方に反応し、自分に男色の気があるのかと悩み、悩んだあげくに沙羅双樹の妻である四の姫を寝取ってみたりする。あげく沙羅双樹の胸を触って女とわかると安心して襲う…もうホントーにサイテーのザッツ・男だと思います。これをまたこの作家がさらりと描くからまたちょうどいいと思うのです。愚かだし非道いんだけれど、憎めなくもありしょーもないとも思える、絶妙な匙加減の描写だと思いました。オチも見事。
しかしこれまた本当に不思議なのだけれど、性指向というものは何故これほど強固なのでしょうね? 異性愛者は同性の友人とどんなに仲良くなってもその相手と性愛関係を持つ発想はまったく抱かないじゃないですか。なんで?と思う。同性愛者も、相手が同性愛者だとなんとなくわかってそれから好きになる、とかいいますよね? 同性でも異性愛者のことは好きにならない、と。でもどうしてなんでしょう? 恋は心のもので性愛は体のものの気がするのに(では脳はどこに?)何故こうも不可分なのでしょうね? やはり何か動物的なセンサーみたいなものが働いているということなのでしょうか…ドリームなんかとしては、性別とは関係なくただその相手だから好きになったんだ、とかいうシチュエーションを支持したいわけですが、実際には相手をまず性別で識別しているところが絶対にあるわけです。そりゃ性別も個性のうちだけれど、それにしても本当に不思議です。
それはともかく、立場を入れ替えて本来の性で働き始めたふたりはそれでも、沙羅双樹は歩くのは早いわ箏は下手だわ、片や睡蓮は未だ臆病で赤面症で乗馬も弓も下手と、お互いに苦労します。それでも帝のために、女東宮のためにと働き、一身に仕え、帝位を巡る陰謀と戦い、いろいろあって、ついに沙羅双樹は帝の女御となって男の子を産み、睡蓮は東宮を辞した女一の宮と結ばれるハッピーエンドと相成ります。めでたい。本当によくできたお話でした。
沙羅双樹の娘は活発で、睡蓮の息子を泣かせちゃったりします。でも老関白はもう彼らをとりかえようとはしません。「あれで良い/あのままで」「なりたいようになってゆくもの」…沙羅双樹も睡蓮も、男を愛し女を愛したから、また母になり父となったから、女であり男であるよう強要された、ということではないのでした。未だ沙羅双樹は凜々しく睡蓮は優しい、けれど凜々しい女も優しい男もそれはそれでと認められた、だから彼らはふたりとも無理せず、息苦しさを感じることなく、自然にそのままの姿で生きていけるのでした。
だからこの物語は厳密に言うと、キャッチ・コピーにあるようなトランスセクシャル・ストーリーではありません。睡蓮より沙羅双樹の方が比重が大きいし、あくまで少女漫画だなとも思います。でもとてもおもしろい一作だったな、と思ったのでした。
最後に脱線。みりおエドガーにれいちゃんアランでこそ『ポーの一族』の宝塚歌劇化がなったのだと考えると、この作品も今の花組でならできるんじゃないの…?
みりおの沙羅双樹にれいちゃんの睡蓮、ちなつの帝にマイティーの石蕗。ゆきちゃんは四の姫と三の姫の二役ができるし、吉野の宮はあきらで女東宮は華ちゃんかな。どうよ!?(どうよと言われても)
雑誌でもパラパラと読んではいましたが、連載が完結しコミックス最終巻も出たので一気読みしてみました。原作は未読。平安時代末期に書かれたと言われる、作者不詳の物語だそうですね。確かに『源氏物語』の影響は色濃く感じられますが、そこに自分なりの萌えを投下してオリジナルなものを作っているのが見事です。それが今で言う男装女子とか男の娘とかBLとかに通じている、というのもすごい。てか日本人のDNAすごい、1000年前からやってること一緒(笑)。そしてそれを現代視点からある程度整理し、理解しやすく読み替えて描かれたのがこの漫画なのでしょう。
何度か言っていますが私は月二回刊の少女漫画雑誌「少女コミック」(現「Sho-Comi」)をまったく通ってこなかった漫画読みなので、さいとうちほ作品もある程度大人になってから勉強しました。好きだったのは『花冠のマドンナ』や『花音』とかかなあ。愛蔵しているのは『銀の狼』と『子爵ヴァルモン』だけです。前者は宝塚歌劇の作品をコミカライズして「宝塚グラフ」に掲載していたものをまとめたコミックスですし、後者は『仮面のロマネスク』の原作『危険な関係』のコミカライズ作品ですから、どちらも宝塚関連作品としての所蔵ですね。
つまり、端整で丁寧で繊細な絵柄でデッサン的にもしっかりしているのだけれど、私にはやや整いすぎていて味気なく思え、またキャラクターの心理描写やキャラクター同士の関係性に重きを置くことが多い少女漫画にしては珍しく、むしろストーリーテリングの方に興味があるタイプの作家で、結果的にキャラクターが類型的にまた大味になることが多く、簡単に言うと「萌えない」…というのが、今までの私のこの作家への評価だったのでした。
でも、この作品は、金脈を当てた気がします。先日始まった新連載も同じ系統のお話のようですし、そちらも当たるといいなと思っています。なんと言っても性別逆転というギミックそのものが萌えなので、それを体現するキャラクター自体が多少記号的すぎようと十分に萌えられるのです。これは大きい。
美麗な絵柄なのでキャラクターがそもそも中性的であり、その性別の描き分け方もまたそもそもかなり記号的です。私が漫画の描き方を覚えた教則本では、まあ素人はたいてい一種類の顔しか描けないものなのだけれど、それでも眉を太く首を太くすれば男顔になるし下まつげまできちんと描けば女顔になる、みたいなことを教えていましたが、この作家の画風にもちょっとそんなところがあります。加えてもちろん上手すぎるくらい上手いので、表情とかでも性別や性格が表せられる。だから主人公の男女ふたりがまず絵としてきちんと描き分けられていて、この入れ替わりで混乱する物語をしっかり成立させているのです。これはすごい。
そう、物語の主人公はふたり、権大納言のふたりの妻に同時期にそれぞれ生まれた、活発で凜々しい姉の沙羅双樹姫と、引っ込み思案で泣き虫の弟の睡蓮の若君です。顔はそっくり、性格は正反対。家族は見分けがつくけれど、周りはどっちが姉だか弟だか姫だか若君だか混乱してしょっちゅう取り違えている。やがてその評判は帝にまで届き、出仕させるよう言われて…女の沙羅双樹の方が男装し元服し帝の侍従となって男性として働いていくことになり、男の睡蓮は女装して裳着をすませ、のちに立った女東宮の内侍となって女性として生きていくことになります。
このふたりを、同じ童禿のときから異性装をするようになってもどっちがどっちかちゃんとわかるように描けているのがまず見事。そしてこの話がおもしろいのは、そうやって性を逆転させて働き始めたふたりだけれど、実はトランスセクシャルではなくてむしろトランスジェンダーであり、性指向としてはヘテロセクシャルだったことが恋と性愛の訪れによって明らかになっていくところです。これは私にはけっこうリアルに思えました。
本当は、自分をどっちの性だと思うか、ということと、どっちの性の相手を好きになるかということはあまり関係ないことなのかもしれません。でも世間的にはシスジェンダー・ヘテロセクシャルがマジョリティだから、そういうふうに組み込まれていってしまう、というところもあるのでしょう。ふたりは自分や世界というものがまだ曖昧模糊としていた子供の世界から、とりあえずおちつく性で世間に出て周りと交わっていくうちに、自分の真の性や恋や人生を見つけていくことになるのでした。
沙羅双樹は侍従として楽しく凜々しく働き、宮廷の女房たちからは可愛らしい美しいと大モテだけれど、自身は女房たちにそうした興味はまったく持てなくて、誰がいいの誰とどうしたのと騒ぐ同僚男性たちの話にもうまくまざれない。そこへ右大臣家の四の姫との縁談が持ち上がり、いろいろあって受け入れざるをえなくなったものの、結婚しても姫とは手をつないで眠るだけです。ペニスがないから性交できない、というより、男として生きていても男として女を好きになることはないとわかった、と言いましょうか。そうこうするうちにこれまたいろいろあって、同僚の石蕗に女と見抜かれ、なかばレイプされてあまつさえ妊娠させられてしまい、行方知れずになるという形で宮廷を去らざるをえなくなる…
これらの事態と平行して、沙羅双樹の恋心はお仕えする東宮のち帝に敬愛のような形から発動を始めるのですが、それはまさしく「平行して」であって、性交や妊娠を通して体が無理矢理変えられるのとほとんど同時に、という感じに進みます。それまで初潮は迎えていても心は童で性もほぼ未分化だったものが、体が変えられてしまうことで心が育つということなのか…沙羅双樹は女にさせられ、女として生きざるをえなくさせられてしまうのです。
それを悲しい、虚しい、不当だ、かわいそうだ、と見る向きもあるかもしれません。でもこの物語では主人公はあくまで前向きです。妊娠が死産に終わったのち、いろいろあって、沙羅双樹は弟の睡蓮と入れ替わり、今度は女装して、というかそもそも女性なのだから表現としては本来の性となって、という方が正しいのかもしれませんが、とにかく睡蓮の内侍として再び出仕を始めます。
一方の睡蓮の方は、そもそもが男性だからか、外部から力尽くで何かをなされ変化を強いられる、ということはありませんでした。けれど女東宮の近くで懸命に働くうちに、けなげでいじらしい女東宮を愛しく思うようになり、抱きしめ、キスをしてしまう…やがて帝から入内を求められ、そもそもが男なので断らざるをえず、となると宮廷にいられない。そしていろいろあって姉の沙羅双樹と入れ替わり、今度は男装し本来の性となって、右大将として再び出仕することになるのです。姉弟ふたりで帝と東宮を守り、ともに仕えるために。
一連の展開に際し、石蕗というザッツ・男なキャラクターの存在がまた効いています。彼は同僚の沙羅双樹をまず好もしく思い、そっくりだという姉の睡蓮を紹介してくれとねだり、でもいざ睡蓮に近づくと、異性センサーが働かないということなのか心がときめかない。むしろセンサーは沙羅双樹の方に反応し、自分に男色の気があるのかと悩み、悩んだあげくに沙羅双樹の妻である四の姫を寝取ってみたりする。あげく沙羅双樹の胸を触って女とわかると安心して襲う…もうホントーにサイテーのザッツ・男だと思います。これをまたこの作家がさらりと描くからまたちょうどいいと思うのです。愚かだし非道いんだけれど、憎めなくもありしょーもないとも思える、絶妙な匙加減の描写だと思いました。オチも見事。
しかしこれまた本当に不思議なのだけれど、性指向というものは何故これほど強固なのでしょうね? 異性愛者は同性の友人とどんなに仲良くなってもその相手と性愛関係を持つ発想はまったく抱かないじゃないですか。なんで?と思う。同性愛者も、相手が同性愛者だとなんとなくわかってそれから好きになる、とかいいますよね? 同性でも異性愛者のことは好きにならない、と。でもどうしてなんでしょう? 恋は心のもので性愛は体のものの気がするのに(では脳はどこに?)何故こうも不可分なのでしょうね? やはり何か動物的なセンサーみたいなものが働いているということなのでしょうか…ドリームなんかとしては、性別とは関係なくただその相手だから好きになったんだ、とかいうシチュエーションを支持したいわけですが、実際には相手をまず性別で識別しているところが絶対にあるわけです。そりゃ性別も個性のうちだけれど、それにしても本当に不思議です。
それはともかく、立場を入れ替えて本来の性で働き始めたふたりはそれでも、沙羅双樹は歩くのは早いわ箏は下手だわ、片や睡蓮は未だ臆病で赤面症で乗馬も弓も下手と、お互いに苦労します。それでも帝のために、女東宮のためにと働き、一身に仕え、帝位を巡る陰謀と戦い、いろいろあって、ついに沙羅双樹は帝の女御となって男の子を産み、睡蓮は東宮を辞した女一の宮と結ばれるハッピーエンドと相成ります。めでたい。本当によくできたお話でした。
沙羅双樹の娘は活発で、睡蓮の息子を泣かせちゃったりします。でも老関白はもう彼らをとりかえようとはしません。「あれで良い/あのままで」「なりたいようになってゆくもの」…沙羅双樹も睡蓮も、男を愛し女を愛したから、また母になり父となったから、女であり男であるよう強要された、ということではないのでした。未だ沙羅双樹は凜々しく睡蓮は優しい、けれど凜々しい女も優しい男もそれはそれでと認められた、だから彼らはふたりとも無理せず、息苦しさを感じることなく、自然にそのままの姿で生きていけるのでした。
だからこの物語は厳密に言うと、キャッチ・コピーにあるようなトランスセクシャル・ストーリーではありません。睡蓮より沙羅双樹の方が比重が大きいし、あくまで少女漫画だなとも思います。でもとてもおもしろい一作だったな、と思ったのでした。
最後に脱線。みりおエドガーにれいちゃんアランでこそ『ポーの一族』の宝塚歌劇化がなったのだと考えると、この作品も今の花組でならできるんじゃないの…?
みりおの沙羅双樹にれいちゃんの睡蓮、ちなつの帝にマイティーの石蕗。ゆきちゃんは四の姫と三の姫の二役ができるし、吉野の宮はあきらで女東宮は華ちゃんかな。どうよ!?(どうよと言われても)