映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

バジュランギおじさんと、小さな迷子(2015年)

2019-01-31 | 【は】



 上記リンクからあらすじのコピペです。

=====ここから。

 パキスタンの小さな村。幼い頃から声が出せない障害を持つ女の子シャヒーダー(ハルシャーリー・マルホートラ)は、心配したお母さんと一緒に、インドのイスラム寺院に願掛けに行く。ところがその帰り道、1人でインドに取り残されてしまう。

 困り果てたシャヒーダーが出会ったのは、ヒンドゥー教のハヌマーン神の熱烈な信者、パワン(サルマーン・カーン)だった。バカがつくほどの正直者で、お人好しなパワンは、これもハヌマーンの思し召しと、母親とはぐれたシャヒーダーを預かることに。

 ところがある日、彼女がパキスタンのイスラム教徒と知ってビックリ。インドとパキスタンは、歴史や宗教、経済など、様々な点で激しく対立していたからだ。

 パワンは、パスポートもビザも持たないシャヒーダーを、国境を越えて家に送り届けることを決意。果たしてシャヒーダーは、無事に母親と再会できるのか……?
 
=====ここまで。

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 何かの予告編で見て面白そう、と思っていたところ、新聞の映画評を読んで、これは見なくっちゃと思ったんだけど、上映館が少ないし、上映スケジュールもイマイチで、先日ようやっと見ることが出来ました。終映間近で1日1回の上映でおまけにサービスデー、というトリプルパンチだったせいか、なんと満席。ネットで座席予約できるシステムは本当にありがたい。


◆因縁の印パ

 インドとパキスタンの仲の悪さなんて、おそらく、日本とお隣のそれなどお呼びでないくらい根深く凄まじいもののはず。しかも彼の2カ国は地続きだし、、、って、もともとは一つの国だったのに分離されたわけだし、、、。イギリスは大英帝国の名の下に、世界中のあちこちで現在まで続く対立の火種を作ってきたことを、一体どう思っているのかね?

 まあそれはともかく。この両国の仲の悪さは、何と言っても(というか、これが最大の問題だろうが)宗教的な対立が根源みたいなものだから、厄介極まりない。宗教が絡むと、もう理屈じゃないから。

 本作でも、その辺の所は(かなりマイルドにしているだろうが)全編にわたってこれでもかとばかりに描かれる。パワンが居候している家の主(パワンの父親の友人)は、異教徒は家に入れない主義だし、インドにおけるムスリムの異端ぶりが織り込まれたシーンもある。主が、少女シャヒーダーがパキスタン人だと分かったときのリアクションは、彼女が子どもでなければ一体どうなっていたことやら、と思うほどの拒絶反応である。

 しかし、本作を見ていてしみじみ感じたのは、東洋人の私から見て、インド人もパキスタン人も、全然見分けがつかないほど見た目は同じであることだ。言葉も、ヒンディー語とウルドゥ語は文字は違うが口語はほぼ通じるんだとか。実際、パワンは、インドでも、パキスタンに入った後も、同じ言葉で話していて、私も、「あれ? 言葉は同じなんだ?」と思った。

 当の両国人同士も、見た目だけでは、インド人かパキスタン人か、区別かつかないのである。パワンは、パキスタンで「あ、インド人だ!」などとすぐ気付かれることなどないし、シャヒーダーがパキスタン人だと分かったのも、彼女がテレビのクリケット中継でパキスタン代表を応援し、画面に映ったパキスタンの国旗にキスしたからである。

 ただ、ムスリムとヒンドゥー教徒の格好の違いは明らかである。ムスリムは、インドでもムスリムと一見して分かる。つまり、こういう記号化されたものを通して、初めて、両者は対立に及ぶわけだ。実際、シャヒーダーがパキスタン人だと分かっても、主の幼い息子はシャヒーダーと仲良しになっていたから「これからも一緒に暮らせる?」等と無邪気なことを言っている。しかし、彼も長じると、親である主のようになるに違いない。

 これは、そのまま、アーミル・カーン主演の『PK』のテーマにつながるわけで、なるほど、彼があのような映画に主演したのも道理だと改めて思った次第。

 本作は、主演のサルマン・カーンがプロデューサーも務めており、彼は「この映画は、ヒンドゥー教とイスラム教、インドとパキスタンの対立を終わらせる可能性を秘めている」等と述べている。それはいかにも脳天気に過ぎると思うが、しかし、『PK』にしろ本作にしろ、少なくとも、インド映画界では宗教的な対立を大衆に問い掛けるだけの問題意識はあるわけだ。しかもそれをテーマのド真ん中に据えた上で、立派な娯楽作品に仕上げているのは大したもんである。

 邦画界も、タブーに挑戦しろなどとは言わないけど、せめてもうちょっと気骨あるところを見せて欲しい。


◆猿を見ると拝む男。

 パワン自身、敬虔なヒンドゥー教徒でしょっちゅう合掌して拝んでいる。何より、パワンが少女シャヒーダーをパキスタンに送り届けようという原動力は、その信仰心なのである。

 パワンが信仰しているのは、ヒンドゥー教のハヌマーン神。猿の神らしく、wikiには、あの孫悟空のモデルになったのでは、とも書かれている。そして、パワンの暮らす町には(野生の?)猿がたくさんいて、パワンは猿を見掛ける度に猿に向かって合掌するのである。当の猿はむしゃむしゃ何かを喰っていたり、ポリポリ身体を掻いていたりするだけなんだけど。

 しかし、パワンは、このハヌマーン神の「嘘を言わない」「クチにしたことは行動する」「弱者を庇護する」という教えを忠実に守ろうとし、それが、どんな困難に遭遇しても命がけでシャヒーダーを送り届けることにつながるわけだ。

 正直なところ、私自身が無神論者だから、信仰を持つということ、さらに、パワンのような敬虔な信者になるということが、どうもイマイチ感覚的に分からない。でも、ある意味、そこまで何かを絶対的に信じ、それが自分の行動の全てに貫かれる、というのはちょっと羨ましくもある。私の中に、そこまで何があっても貫き通す確たる芯になるものは、ハッキリ言ってない。


◆その他もろもろ

 まあ、無事にパワンがシャヒーダーを送り届けるラストが待っていると分かっていても、道中のあれこれには心穏やかではいられない。ツッコミ所は色々ありそうだし、インド映画のお約束である歌と踊りも当然盛り込まれ、カットしても問題なさそうなシーンも結構あるが、2時間40分はアッと言う間に過ぎる。

 特筆すべきはカシミールの山岳地帯の美しさ。これはスクリーンで見た方が絶対イイ。あれこれ書くのもバカバカしくなるくらいの、息をのむ美しさに圧倒される。あんなに美しい自然の下で、何を対立しているのやら、、、と思えてくる。

 あとは、シャヒーダーを演じたハルシャーリー・マルホートラちゃん(絶対覚えられないお名前)がとにかく可愛い。喋れない役なので、本当に言葉を発しないのだけど、表情が実に豊かで素晴らしい。

 ラストはちょっと過剰に感動を演出していて、頭の中ではドン引きだったんだけど、心はツボにはまったらしく涙涙、、、であった。我ながらヘンな感じだった。ラストシーンのストップモーション、、、あれはちょっとね。もうちょっと普通に終わっても良かった気がするわ。

 本作を見ようと思った理由の1つは、近々北部インドへ行くから。デリーもちょこっと出て来たので、思わず食い入るように見てしまった。砂埃の舞う猥雑な町の風景も活気があって魅力的。ううむ、ますます楽しみになってきたゾ!








カリーナ・カプールはやっぱり時々、小林幸子に見えた。




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