映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

シークレット・サンシャイン(2007年)

2016-03-02 | 【し】



 夫を事故で亡くしたイ・シネ(チョン・ドヨン)は、息子のジュンと2人で亡き夫の故郷である密陽に移住した。そこで、ピアノ教室を開き、ジュンは塾に通わせ、何とか生活が軌道に乗って来た。

 そんなある日、ジュンの塾でスピーチの発表会があり、その後は保護者の親睦会、さらに夜になっても二次会のカラオケと続き、シネはジュンを一人自宅に残したまま、他の母親たちと一緒にカラオケに興じる。そして、帰宅してみると、ジュンがいない。かかってくる脅迫電話。親睦会でシネがはったりで言った「不動産投資しようと思っている」という言葉を真に受けた塾の教師による身代金目的の誘拐事件だったのだ。

 しかし、事件はあっけなく悲劇で終わり、ジュンは水死体で発見される。悲しみのあまり、シネはそれまで見向きもしなかったキリスト教に帰依し、どうにか精神のバランスを保っていた。そして、教えに従い、誘拐犯を許そうと思い至り、刑務所まで会いに行く。

 犯人はしかし、思いもよらないことに服役後にキリスト教に入信したと言って大変に穏やかな顔をしており、シネに許されるまでもなく、とっくに「神により許しを得ました」と言い放ったのであった。この犯人の一言で、シネの心は崩壊していく、、、。

  
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 日頃から、神様とか、教祖様とか、胡散臭いと思っている不敬な輩である私にとって、本作の宗教の描き方は好感を抱きました。

 信仰って、確かに人の心を救うことがあると思います。私の知り合いにも、とても悲しい出来事に遭遇しながらも、信仰が支えてくれた、と言ってきちんと生きている人がいます。これこそ信仰が、宗教が廃れない大きな理由の一つでしょう。

 そして神様は、大罪人にも、罪なき人にも、等しく許しを与えて救うのですね。なんて御心の広いことでしょう。でもね、神様、あなたのやっていることは、大変に残酷なことでもあるのです。

 、、、ってことを、本作は描いています。

 シネは、ジュンを失う前は、宗教なんて信じていませんでした。今の私と同じです。しかし、ジュンを失い、何かにすがりたかったのですかね、、、キリスト教に一筋の光明を見出してしまいます。どんどんのめり込んで行きます。

 大切な人を失ったことはありますが、私は、その時は宗教には走りませんでした。つーか、ますます神なんかクソくらえ、と思いましたね。何でこんな理不尽なことが起きるんだよと。試練を超える力のない人の下には試練はやってこない、なんていうけど、まやかしでしょーが。そう思わないと生きていけないから、ただそれだけでしょ。

 要は、人の弱みにつけ込んでいるだけじゃないの、と、今でも思っています。見てごらんなさいよ、世界中で起きている宗教戦争を、宗教界の腐敗を。

 私の母親は、人を平気で傷付けるような罵詈雑言を吐きまくるくせに、迷信深く、よく「罰が当たる」とか「神さんは見とるでなぁ」ということを言う人でした。○○の会みたいな宗教の集まりに通っていたこともあるし、般若心経を毎日唱えていた時期もありました。そんな母親ですが、私が前述の大切な人を亡くした時、私に「(親の言うことを聞かないから)罰が当たったんやわ」と言いました。娘が哀しみに暮れている様を見て、そういう言葉を吐ける人が、罰が当たるだの、神さんが見とるだの、ちゃんちゃらオカシイってんですよ。信じる者の言動はどうあれ、そいつだけが救われるんなら、それは神なんぞではなく、そいつ自身だってことです。そいつが勝手に自分に都合の良い思考回路で自分が楽になるように現実を歪曲して解釈しているだけの話です。それが神の思し召しだとか、寝言は寝て言え、ってやつです。ちゃんとした信仰と、迷信をごっちゃにするなとお叱りを受けるかもですが。

 つまり、本作では、誘拐犯は神に許されたのではなく、自分が自分を勝手に許しただけなのです。シネは、それに気付いて、目からうろこが落ち、一気にキリスト教への信仰心が怒りに変わったのでしょう。

 結局、信仰なんて、自分の心の持ちようであって、それを神という名前を借りてもっともらしく正当化している、心の作用だと思います。良くも悪くも、ご都合主義。それで、苦しみが軽くなるのならその人にとっては意味のあることなのでしょうが、それによってさらに苦しむ人がいる、ってことにどう説明をつけるんですかね。それが神のご意思とか言うんですかね。

 何かのレビューで書いたんですが、私がかつて宗教に関する話で、唯一得心できたのは、ブッダの「心理のことば」ですね。今の仏教は???ですが、ブッダの教えに関しては、非常に心に響きました。自分の心を救えるのは自分だけだ、とブッダは言っています。その通りだと思うのです。

 シネは、神を挑発します。これでもか、これでもか、と大罪と言われることをしでかします。挙句、自殺未遂。死ぬ気はなかったんじゃないかな。神よ、これを見ろ! みたいな、当てつけ。そう、当てつけです。

 考えてみれば、シネは無意識だったかも知れないけれど、亡き夫の故郷に移住したのも、死ぬ前に浮気していたらしい夫への当てつけかも。

 当てつけしているあいだは、彼女には本当の平穏な日々、幸せな日々は来ないだろうね。だってそのことに囚われている裏返しだもの。

 ラストシーンは、シネが自ら自分のボサボサに伸びた髪を切るシーンなんだけれど、当てつけしていた自分への訣別なのかな、、、とちょっと思いました。そして、地面に当たる薄日の映像、、、シークレット・サンシャインでしょうか。

 ソン・ガンホ演じる、自動車修理会社の社長が、ことあるごとに何気にシネをサポートしています。ストーカーみたいな感じもあるけれど、神なんかより、身近にいる卑俗な男の方がよっぼと頼るに値すると言わんばかりの本作の描写に、ちょっと溜飲の下がる思いでした。







神様じゃなくて、自分を信じていますけれど、何か?




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