映画 ご(誤)鑑賞日記

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『絞殺』についての考察

2016-02-02 | 映画雑感
 昨日レビューをアップした後、なぜかふと思いました。

 新藤監督が、あそこまで勉についての描写を表面的にした理由ですが、、、。もしかすると、あれは、両親の見ていた勉だったのかな、と。両親といっても、父親目線の方が強いかな、、、。

 つまり、それくらい、あの親たちは我が息子のことをちゃんと両目を見開いて見ていなかった、ということなのではないか。

 食事のシーンで勉がずっと後姿だったのも、親たちは勉の顔を見ているようで見ていなかった、、、とか。

 ブレッソンの『やさしい女』を思い出したんです。あれも、夫が自殺してしまった妻のことをゼンゼンちゃんと見ていなかった作品だったんですが、それを、飽くまで夫目線でのみ描くことで、見事に表現していたんですよねぇ。生前の妻の行動は謎だらけだし、脈絡がないように一見感じるのだけれども、実は、その行間を想像すると、妻は妻なりに足掻いていたことがぼんやりと分かる気がして来るし、それよりも強く見ている者に伝わってくるのは、いかに夫が妻のことを自分の都合の良いようにしか見ていなかったか、ということ。そう、夫目線で描くことで、夫が妻をどう見ていたかが浮き彫りになっていたのでした。

 、、、ということが、なぜだか、昨夜、拙記事をアップした後に、ふっと頭に浮かんだのでした。であれば、本作もそうなのかも、、、と。

 そう考えると、割と腑に落ちる気がしたのです。手練れの新藤監督です。私が疑問に思うまでもなく、勉の描写については十分考察されたはず。その結果があれだとすると、なるほど、あれは親の見ていた勉だったのだ、と。

 ただ、そうすると、矛盾も出ては来るんですけれど。勉と初子の描写とかね、、、。もしかすると、バッサリなくても良い設定だったかもしれません。むしろ、その方が、もっとダイレクトに、親目線であることが見ている者に伝わって来たのではないか、、、。

 勉の親父が、何度か口にするセリフがあります。「何だ、親に向かって!!」、、、これ、私も何度も母親に言われましたが、こういうことを繰り返し言う親は、どうして我が子にそんなことを言われたりされたりするのか、我が身を省みる、という視点がすっぽり欠落しているのですよね。だから、「親に向かって」なんていう、身も蓋もない言葉が出て来てしまう。しかもなんのためらいもなく。

 結局、こういう親は、自分の“願望”もしくは“思い込み”というフィルターを掛けて我が子を始め、周囲を見ているので、現実がきちんと見えていないことが多いのだと思います。そのフィルターを外す、ということに思いが至らない。もっと言えば、自分がそういうおかしなフィルターを通して物を見ていることにさえ気付いていない。

 とはいえ、実際の“開成高校生絞殺事件”の一家がそうだったのかは分かりません。根深い何かがあったのは間違いないでしょうが、親がきちんと子どもと向き合っていなかったとは言い切れません。大抵の親は、子どもに良かれと思って頓珍漢なことをしてしまうこともある訳で、子どもの性格も大きく作用するし、親がああだから子がああなっても仕方ない、的に、本作を見て納得してしまうのは危険だな、とも思います。

 いずれにせよ、何となく本作に対する感想が、ちょっとだけ変わったので、書き記しておこうと思いました。





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