映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

カミーユ・クローデル(1988年)

2014-06-16 | 【か】

★★★★★★☆☆☆☆

 『アデルの恋の物語』に続いて、精神を病む実在の女性を演じたイザベル・アジャーニ。やっぱり、美しい。ロダンと破局した後、まあ、だんだんおかしくなっていくのだけれども、その壊れていく過程が演技とは思えないところが、彼女の真骨頂ですかね。

 だいぶ前に、テレ東の「美の巨人たち」で、カミーユ・クローデルの「ワルツ」を取り上げていたけれども、番組ではあれが、ロダンとの決別の意思の表れだという話になっていたように記憶している。本作では「ワルツ」はほとんど出てこないが、彼女は決別を自ら「決意」できたのかねぇ。私は、ロダンが恐れをなして逃げたとしか思えないんだよねぇ。

 ロダンについては論外なので、ここでは記述する気にもならんけれども、二者択一を男に迫る女、ってのは、やっぱり破滅を自ら選択していることになるんだよね。「奥さんか私か、どっちか選んで!」「アタシと仕事と、どっちが大事なのよ!」「何で自分の母親の味方ばっかりすんのよ!」、、、くらいが今、パッと思いつく女の男に迫る二者択一の例だけれど・・・。これ、言われても困るもんね。言いたくなる気持ちもよく分かるが言って答えが出たとしても、自分の望む答えが出る確率は、良くて五分五分、悪きゃもっと悪いってことで。

 カミーユは直情型なんだろうなぁ。まあ、だからこそ、ああいう後世に残る芸術作品を残したのでもあるだろうし。愛しているなら私を選べ、って、ロダンタイプの男に、一番言っちゃいけないセリフを言っちまったら、そら、男は逃げるでしょ。火を見るよりも明らかなのにねぇ。折角の才能を、自ら潰してしまった挙句、死ぬまで精神病院に監禁生活。

 ロダンも、才能を除けば、ただのスケベ親父な訳で、カミーユも、そこに気付いてほしかったなぁ。私はあの人に惚れたのではなく、あの人の才能に惚れてしまっただけなのだ、と。でも彼以上の才能の男が、彼女に身近にいなかったってことだわね、多分。ドビュッシーも天才だけれども、カミーユが、ドビュッシーの才能がロダンのそれを凌駕していると肌で感じるのは難しかったのかも。音楽って、目で見えるものじゃないからね。聴く人の感性が大いに問われるわけで。やはり、彫刻家ってのは「触感」という具象そのものの世界に生きる人なので、観念が入る余地ないでしょ。 

 しかし、ロダンをジェラール・ドパルデューが演じていたのが不快だ。ジェラール・ドパルデューという俳優さん、好きじゃないのだ。俳優としての能力云々の前に、顔が嫌いなのである。あの太い鼻、足の短い体躯、、、ルックス的に、どうしてもNGである(本作では髭面だったのでまだどうにか耐えられたが)。あれでいて、結構女を破滅させる役を演じているんだから、おフランスでの良い男ってのは外見の優先度、低いのね、きっと。しかし、映画という一種エンタメの世界では、せめて、もう少し夢を見られる見目麗しい男性にロダンを演じてほしかったね。なにしろ、イザベル・アジャーニなんだから、カミーユが。

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