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「四戦紀聞」を読む 8




(大洞院の紅葉)

昨日、小国神社の後、森の石松の墓がある大洞院の紅葉も見に行く。ここもこの秋最後だろうことを感じさせる紅葉であった。御朱印をいただきに寺務所へ行くと、石松の扮装一式を借りられるとかで、高齢の女性が扮装に苦労していた。身に付けるものが中々思うようにならない。最後は草鞋の履き方に苦労していた。カメラ担当の若い人は息子さんだったのだろうか。伴なって、境内の隅に撮影に行った。

今日の午後、「駿遠の考古学と歴史」講座に出席した。今日は台風で中止になった分の講座であった。

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「四戦紀聞」の解読を続ける。「遠州味方ヶ原戦記」の項の続き。

信長の近臣、長谷川橋助、佐脇藤八郎良之、山口飛騨、加藤弥三郎など、この頃、故あって信長の勘気(かんき)を得て浜松へ来たり。神君に食を受けるが、今度の軍(いくさ)を幸いと悦んで、一番合戦に高名を遂(と)げ、四士終(つい)に討死(うちじに)す。この時、尾州清州の具足師(ぐそくし)、玉越三十郎、右四士の方へ来たり。その序(つい)でに具足を商いけるが、則ち、四人と共に戦場に赴(おもむ)き、勇を励まし命を殞(おと)す。
※ 勘気(かんき)➜ 主君・主人・父親などの怒りに触れ、とがめを受けること。また、その怒りやとがめ。
※ 具足師(ぐそくし)➜ 鎧や兜を作ったり、修理したりする職人。


小山田高重、山家三方衆の勢を合わせて、突き蒐(かか)る。その外、武田左馬助信豊、穴山信良、内藤修理昌豊を始め、甲陽(こうよう)の勇将、兵を進め、散々(ちりぢり)に戦う。味方の二の備え、小笠原与八郎長忠ら奮戦す。御旗本の前備え榊原小平太康政及び大久保七郎右衛門忠世ら、横鎗を入れて奮い撃ちければ、小山田再び敗し、築手(作手)、段嶺、長篠の勢も壊散(かいさん)す。敵にも、山縣また盛り返し、その外甲信の兵、雲霞(うんか)の如く馳せかかる。
※ 甲陽(こうよう)➜ 甲斐の国のこと。
※ 壊散(かいさん)➜ やぶれ散ること。
※ 雲霞(うんか)➜ 雲と霞。大ぜいの人が群がり集まるたとえ。


神君、白旄(はくぼう)を採り給い、諸卒を励まされしかば、御旗本の鉾先を揃え、山縣が陣を破る。小栗又一忠政、冑首(かぶとくび)二級を得る。柴山小兵衛正和(十八歳)、首一級並び太刀と共に分捕(ぶんど)す。松平三郎太郎康元(十三歳)、水野藤十郎忠重、西郷孫九郎正員(十六歳)、杉浦八郎五郎鎮貞、筧又蔵、服部半蔵、渥美太郎兵衛友吉、山田十大夫重利、本多八蔵、山上彦左衛門、佐橋乱之助吉久(後改め甚兵衛)、浅井道之助忠次、神谷与次右衛門清次、原田佐左衛門、安松矢之助、鷹見新八郎、群卒(ぐんそつ)に抽(ぬき)んで、功を顕(あら)わす。
※ 白旄(はくぼう)➜ 白いからうしの尾をさおの先につけた旗。軍隊の指揮官が指揮をするときに用いる。
※ 分捕る(ぶんどる)➜ 中世、戦場で敵の武器、武具または首などを取ることをいう。
※ 群卒(ぐんそつ)➜ 多くの兵士。

(「遠州味方ヶ原戦記」つづく)
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