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「武徳大成記」を読む 14

(柏屋、大戸としとみ戸の説明/喜多八さんの人形が覗いている)

朝から、掛川文学講座、志太文学散歩に参加する。コースは、岡部宿柏屋-田中城下屋敷-焼津サカナセンター(昼食)-焼津小泉八雲記念館-焼津歴史民俗資料館の順であった。いずれも一度は訪れたことのある所であるが、各所で案内が付いて、個人的に訪れたのでは聞けない話が聞けた。

柏屋では、隣りの本陣からあふれた武士が泊ったという二タ間続きの部屋で、折から暖かな日差しが入って、日永、そこで過ごしたい気分になるなあと、語り合った。お茶でもよばれながら、と誰かが相槌を打つ。

田中城下屋敷では、田中城の主について、今川が築城し、武田、徳川と主が変わった話があり、駿府に隠居した家康が、鷹狩りのために、20回以上田中城に足を運び、田中城で食べた鯛に食中りして亡くなった話に及んだ。明治になって、三舟の一人、高橋泥舟が田中城を預かっていた話にまで及んだが、今自分が注目している、中村一氏の家臣、横田内膳正が入っていた10年間の話は欠落していた。(明日へつづく)

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「武徳大成記」の解読を続ける。「神君、信玄と味方ヶ原に戦い給う事」の項の続き。

この戦いに、吾が兵、甚だ力戦の労あり。死傷もまた多し。所謂、石川小大夫、野々山藤兵衛政安、安藤木工助基能、小笠原新九郎安廣、山田甚五郎重吉、同角之丞、服部源兵衛保正、原田藤左衛門種友、近藤宮内吉成、長谷川藤九郎正長、小川傳九郎、宇野三十郎政秋、斎藤宗林、志村弥左衛門秀次、中根市左衛門尉正直、門奈善三郎真友、大河原源五左衛門、渡辺十右衛門永、同新九郎、牧右衛門四郎長正、鈴木伝八郎、弟又六郎、米津十郎左衛門、大村弥三郎、荒川甚太郎、権田久助、小笠原三郎兵衛、大橋刑部など戦死す。

細井喜三郎勝宗、騎を反(かえ)して敵のために殺さる。弟喜八郎、その仇(かたき)を斬りて、兄の首を奪いて還る。山下喜兵衛もまた、その兄七郎右衛門が敵(かたき)を撃ちて、二つの首を併せ獲ったり。鳥居元忠、本多三弥正重、健闘して傷つけり。小笠原小五郎安勝、杉原弥一郎親次、戸田七内光定、森川金右衛門氏俊、大岡傳蔵清勝もまた、力戦して創(きず)を被(こうむ)る。

水野藤十郎忠重、西郷孫九郎正員(十六歳)、杉浦八郎五郎勝吉、渥美太郎兵衛友吉、大河原正勝戦功あり。山田十大夫重則、本多八蔵、秋元甚兵衛吉久、浅井道之助忠次、神谷与次右衛門清次、原田佐左衛門首級を獲ったり。松平善兵衛康安、小笠原金平と同じく鑓(やり)を合わす。康安奮戦(ふんせん)して、傷を被ること数所。松平三郎康元(十六歳)、戦功あり。家士、金田靭負(ゆげい)宗房、戦死す。
※ 靭負(ゆげい)➜ 令制の左右衛門の和名。宮城の警衛にあたり、宮城門を守る衛門府を靫負司という。

(「神君、信玄と味方ヶ原に戦い給う事」の項、つづく)

読書:「当たらぬが八卦 占い同心鬼堂民斎1」 風野真知雄 著
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