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磐田農高のバラ園とラクウショウ

(磐田農業高校バラ園)

ネットで磐田農業高校のバラ園が今見頃と知って、お昼前に女房と出掛けた。磐田にはお昼頃に着いた。駐車場がないと聞いていたので、市庁舎脇の駐車場に車を停めて磐田農業高校まで歩いた。途中にちょっと覗いた国分寺跡では明日「国分寺まつり」があり、テントを張ったりその準備が進行していた。

校舎南側のバラ園には20~30人ほどの花見客がいた。バラは花が過剰すぎて被写体にするにはどうも苦手である。盛りを過ぎたらどんどんもぎ取ってしまえばよいのだろうが、花の散り方も優雅とはいえない。近付くと鈍感な鼻にも薫りが届いた。




(プリンセスアイコとプリンセスミチコ)

赤、白、黄色、うす紫、ピンク、オレンジ色などありとあらゆる色彩があふれている。バラは蕾から半分開いたほどが良い。開き切った花は過剰さが目立ってエレガントではない。品種には色々と名前がついている。ピンク色のプリンセスアイコと、赤に近い橙色のプリンセスミチコを見つけた。

案内板によると、磐田農高のバラ園は平成8年、学校の創立100周年の記念事業の一つとして造成された。生徒の手によって植栽され、丹精込めて育てられた。品種は原種からオールド種、中輪、大輪にいたる150種、1500株が春夏秋それぞれに季節の彩りを見せるという。


(磐田農高のラクウショウ)

うどん屋で昼食をとってから、磐田農高のラクウショウを見に行った。昔、冬場に葉を落とした木を見ているから二度目である。車を進めるとそのままグラウンドの臨時駐車場に導かれた。事情が判らないまま駐車した。人の後を付いていく。生徒たちが次々に挨拶してくれて、大変に気持が良い。先を行く人たちは講堂に入っていった。父兄の集会のようなものがあるらしい。我々はそこには用がないので、北側の玄関のそばのラクウショウを見に行った。すべてが今年出た新芽の木は美しい。「緑にもえる」という表現があるが、まさにその言葉通りである。

案内板によると、「ラクウショウ(落羽松)」別名ヌマスギ(沼杉)原産地アメリカ南東部の湿地帯、1903年(明治36年)、着任した第五代細田校長が小石川植物園から譲り受けて植えた木で、1975年(昭和50年)、現在の本館建築時に、伐採の危機があったが、この木をそのままにして校舎の位置を決めて残したという。農業高校らしいいい話である。今では磐田農高のシンボル樹木である。校内名木10選の①とある。校内に名木として数える木が10本もある学校など、聞いたことがない。それだけで歴史と環境がたっぷりある学校だと思った。きびきびと挨拶する生徒たちを見てさもあらんと思った。
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免許の更新に行って来た

(ムサシの散歩道のルピナス)

今朝、運転免許証の更新に行ってきた。ゴールドだから一時間掛からずに新しい免許証をもらって帰った。次は5年後で、免許の更新もあと何回出来るだろうなどと考えていた。費用は証紙代が3250円、(財)靜岡県交通安全協会の会費が2000円である。会費は一応任意だとの説明があった。会費を払うとロードマップかエコバッグのどちらかを選べという。ロードマップを頂いて来る。

今回の免許証の大きな違いは、IC化されたことである。免許証にICが埋め込まれていて、個人情報を見るには暗証コードが必要だと4桁の数字を二つ書かされた。このIC化されたことで何が始まるのか、講習で5分ほど説明した係の人は、他県では何か出来るらしいが、静岡県ではまだ何も始まっていないという。銀行などで免許証を身分証明にして口座を作るなど、ICを読み取って出来るようになるらしい程度の話しかなかった。

新しいシステムを取り入れながら、どう使われるのか説明がないのはどうかと思った。Nシステム(自動車ナンバー自動読取装置)はテレビの推理ドラマで大活躍して、初めてその存在を知った。犯罪捜査に力を発揮することは判るが、一歩間違うとプライバシーの侵害になりかねない。危うい問題をはらんでいると思って視てきた。いつか知らないうちに、Nシステムが都市の中に張り巡らされているのは何とも不気味である。

免許証のIC化についても確たる説明がないようでは、この先どんなことに使われるか不安になる。極端に考えれば、ほとんどの大人が所持していて、職務質問しなくても、その人が誰であるかが判ってしまう。そんな使われ方をするとプライバシーは無くなる。

夕方、事業仕分けのニュースが出て、(財)全日本交通安全協会発行の「交通の教則」が問題になっていた。免許更新の時には全員に渡され、自分ももらってきた。全員持って帰るのかという質問をされて、調査をしていないから判らないと答えていた。何かとんちんかんなやり取りである。更新時には全員に渡されるし、署内に捨てて帰る人もいないだろうから、全員持ち帰るのは当たり前である。質問はポイントを突いていないし、判らないという答弁も変だ。要はどのくらい利用されているのかと聞きたいのだろう。それなら調査していないから判らないの答弁が成り立つ。やり取りをしている当人たちが免許更新に行ったことがないのではないかと思った。まあ、教則を貰っても車のダッシュボードの物入れに収めて、ほとんど見ることはない。それならば無くてよいかといえば、それも困ると答えるのであろう。法の改正を周知させた証拠の品なのだから。
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鳩山内閣がぶれるわけ

(庭のクジャクサボテン)

今朝、新聞は一面トップで「杭打ち桟橋断念、辺野古結局埋め立て」という活字が踊っていた。鳩山内閣は政治のシロウトでも無理と感じられた「杭打ち桟橋」案を掲げて、結局断念することになるようだ。他にも一面には「高速6月新料金断念」の記事も出ていた。土日1,000円の制度が継続されるらしい。

これだけブレまくり、すべてにおいて後手後手になってしまう内閣を国民は今だかつて見たことがない。政権交代してまだ一年経たない、青葉マークの内閣なのだから大目に見ようという論調が一部にあるが、この間にも日本は毎日のように国益を失っていることを忘れてはならない。このまま行けば、日本は戦後間も無しのような三等国に成り下がってしまう。

日本は民主主義に基く政党政治ですべて動いていると思うのは幻想で、戦後60数年、日本の政治は一貫して官僚たちが牛耳ってきた。もっとソフトに言うならば、日本の政治を官僚たちがしっかりと下支えしてきた。自民党政権はその官僚機構の上に乗っかっておれば、どれだけ青葉マークでも60点は取れた。

官僚たちは戦後復興から高度成長へと日本を繁栄に導いてきたのは自分たちであるとの自負から、官僚組織を守ることが国益と合致すると思い込んできた。しかし、世界の中で日本だけが繁栄を謳歌する時代は終った。肥大化した官僚組織は簡素化しなければならない時代がやってきた。ところが、官僚組織の上に乗っかって政治をしてきた自民党政権は、長い間に官僚組織の代弁者に成り下がっていた。官僚組織にメスを入れることなど出来る相談では無かった。

有権者はそんな自民党政権に見切りを付けて、民主党政権を選んだ。政権交代を果たした民主党政権は官僚の力を見くびっていた気配がある。自分たちの実力も把握しないで、国会答弁から官僚を締め出した。すべてを民主党内閣の閣僚が答弁することにした結果、答弁がしどろもどろになり、聞いている国民はがっかりさせられた。官僚のレクチャーも十分受けないで(官僚側がレクチャーをサボタージュしたのかもしれない)思いつくままに、口当たりの良いことを口に出すから、ブレまくってしまうのである。

民主党政権に知恵者がいれば、当面は官僚の上に乗っかって政治をやりながら、政治家は10年先をにらんで、官僚組織の制度改革に取り組んだだろう。当面は官僚たちを味方に付けて、協力を得ながら、民主党の掲げてきたマニフェストを不十分ながらも実現を計って行くのが、日本の国益を失わない唯一の方策だったと思う。

裁判員制度や検察審査会の改革で考えられたように、官僚組織の中に民意をどのように取り入れるかが問題である。新卒の優秀な人材を採用して純粋培養するように官僚を育てていく現在のやり方は、結局、人生で一度も挫折した経験のない人だけが、官僚のトップになれる歪な制度である。人は挫折することで人の痛みを知ることが出来る。挫折を知らない人はそれだけで人格に欠陥があると思う。ひたすら挫折者を排除していく制度はそれ自体欠陥制度である。

民意を入れるためには、国家公務員の3割ぐらいは10年ほど民間で働いてきた様々なキャリアの人から中途採用するというような思い切った制度改革が必要である。
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天保時代の結婚事情

(今年も咲いた庭の松の樹上のセッコク)

先週水曜日の掛川古文書講座、「各和村長谷川喜三太の記録」の続きである。はしがきに続いて、喜三太さんの結婚式の話が最初に出てくる。「因縁」と題打って記されている。「因縁」は「物事の起こり、由来」の意。講座で解読後、読み下したものを以下へ書く。

因縁
当家五世相続人喜三太こと金谷宿河原町大坂屋長兵衛次男にて、天保二辛卯年(1831)九月、下垂木村弥左衛門、金谷仲町喜作仲立ちにて、縁談相ととのい、同月二十四日、喜作引連れ足入れ致し、同三年正月十七日、めでたく婚礼相済み申し候、もっとも当家久しく絶え絶えに相成り居り候ところ、今般田中へ家普請致し、引移り、新家同様ゆえ、万事質素にて祝儀も三ッ目限りに致し候
  金谷より来り候人数
喜三太兄 敬太郎、親類 源五郎、姉聟 喜兵衛、仲立ち 喜作、外に供六人、喜三太共、しめて拾壱人
  この方人数
大井住 甚左衛門、同人次男 和三郎、東小松三男 佐之助、片瀬村 安蔵、東木戸 常蔵、下垂木村仲立ち 弥左衛門、大井住 たに、東小松 きた、下垂木村 さち、当家娘 長(おさ)、しめて十人、料理人 北原川村 市郎兵衛、同名栗 三郎平
人数右の通り、献立吸物五通り、その外これを記さず、本膳二汁五菜、下働き大井住、東小松、手前、三軒の下男下女にて間に合わせ申し候、当家末々に至り、祝儀の節、この形に順じ驕りがましき儀、致すまじく候


喜三太さんは金谷宿の大坂屋長兵衛という、商家の次男で、縁あって各和村の小前というから、自作農の農家へ婿入りした。百姓代や組頭を務めるような大きな農家である。

両家にそれぞれに媒酌人が付いている。この風習は38年前の自分の結婚式当時にも引き継がれていた(自分の結婚式も媒酌人が二組付いていた)が、その内媒酌人は一組に簡素化され、10年ほど前から急速に媒酌人がいない結婚式が増えて、今は媒酌人が付いている結婚式が珍しいものになった。

「足入れ」という今では見られない風習が出てくる。結婚の風習は太古から様々に変遷してきた。古くは婿が泊まりに通う妻問(つまど)い婚が主流であったが、次第に嫁入り婚に変遷していく。その変遷の過程で、婚姻成立祝いをしただけで嫁は実家に帰って、婿が泊まりに通う妻問い婚の形を一定期間とる風習があった。これを「足入れ」あるいは「足入れ婚」という。一定期間が過ぎたら嫁が婿方の家へ移ることになる。

喜三太さんは婿入りだから、少し事情が違うが、婿さんが泊まりに通ったのであろう。「足入れ」の期間が4ヶ月あるが、講師は足入れ期間が長いと感想を述べた。「足入れ」を現代の「婚約」と考えれば、そんなものであろう。

家普請も重なり、婚礼の祝いも質素に「三ッ目限り」としたとある。この「三ッ目」が判らないと講師がいう。ある受講者が辞書によると、「三ッ目」とは「婚礼から三日目に当ること、また、その祝い事」とあるという。婚礼のハレの日を三日限りとし、四日目からは普通の生活に戻ることを言ったのだろう。

ところで、喜三太さんの嫁さんのことが記述されていないが、「当家娘 長(おさ)」というのが嫁さんの名前なのだろう。
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童子沢でご近所のバーベキュー

(童子沢親水公園)

昨日の日曜日、童子沢親水公園でご近所の有志、ラフランスの会のバーベキューがあった。午前11時からというので出掛けた。歩いて行っても良いと思ったが、送ってくれる人があって、車で行った。


(手際よく野外料理が出来る)

すでに世話役の人たちが親水公園に設備されているかまどを二つ使って、一方に鉄板を、もう一方に金網をのせて、炭火をおこすのに取り掛かっていた。鉄板ではSさんが大量の麺をのせて焼きそばを手際よく作っていく。金網の方ではソーセージが焼かれ、わたを残して二つに割ったイカが並んだ。別のテーブルではイワナやヤマメがから揚げにされている。男女8人ずつの熟年のご近所さんがそれぞれの役割を見つけて野外料理がみるみる出来ていく。自分には手を出す余地がなく、周りで見物しているだけであった。

野外料理を囲んで乾杯になった。ソーセージ、ヤマメのから揚げ、焼イカなど、けっこう美味く頂いた。ビールも少し飲んで、焼きそばやお赤飯も食べた。野外ではしっかりお話もし難くて、そのうちに政治の話になった。鳩山政権、子供手当、普天間などと話がすすんできたので、自分は席を立ってデジカメを持って周りを散策した。

童子沢親水公園には我々の他にも、別のグループや子供連れの家族などがそれぞれに楽しんでいる。管理棟が売店になっていて、その天窓から頻繁にシャボン玉が飛んで親水公園を漂っている。午後1時に親水公園の上流から小さな金魚が放流された。それを子供たちが川に下りて捕まえている。赤いから岸からでもよく見える。大人たちは上から覗いて、そこにいた、かしこにいたと、子供たちに忙しく指示している。コップで掬い取ろうと試みるが何度チャレンジしても獲れえられない。水に乗っていれば金魚は逃げられる。素手で捕まえる子はわりあい容易に捉えてくる。子供たちは衣服が濡れるのもお構い無しに金魚を追いかけていた。

「童子沢」の由来の伝説が案内板に記されていた。川根の家山にいる夢窓国師を、京から追いかけてきた野守太夫という女人が、童子沢の手前まで来て高い山に阻まれ途方にくれていた。大代で子供を産んで里人に預けると、自らは鯉に姿を変えて沢(童子沢)を溯り、山を一っ飛びで夢窓国師のいるお寺のそばの池(野守の池)に入ったという。大代で育てられた子供は童子沢で鯉やヤマメと戯れて元気に育った。それ以来、童子沢で遊ばせると元気に育つと評判になり、里人は子供たちを童子沢で遊ばせた。

今日、童子沢で川遊びをしている子供たちもきっと健やかに育っていくのであろう。いつか、わが孫たちも連れて来たいと思った。気付くと後片付けが始まっていた。

帰りは歩こうと思っていたので、皆んな車で分乗して帰るのを断って、家まで歩いた。ずいぶん変った人だと思ったかもしれないが、約4キロの道は自分には調度良い足慣らしである。わずかに飲んだビールも抜けて、ようやく暖かくなって風が気持ちよい。約1時間弱掛かって自宅に着いた。
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雪の立山巨樹の森




(美女平の立山スギ)

金曜日夜のNHK金とくで「雪の立山 巨樹の森」という番組があった。土曜日の再放送と合わせて2度見た。

立山の美女平に杉の巨木があって立山スギと呼ばれていることは、立山登山をした昔、聞いた覚えがある。美女平駅のそばでも1本見たように記憶している。番組では美女平には幹周6メートル以上の太さの巨樹が147本あるという。それほどの巨樹の森が残っていることは知らなかった。

標高1000メートルの美女平には、残雪がおそくまであり、夏でも霧に覆われることの多くて、杉を育む水がたっぷりとあった。その点、屋久島と共通点がある。まだ雪に覆われた4月に、登山家の田部井淳子さんと内多勝康NHKキャスターが美女平を訪れた。田部井、内多両氏は昨年、番組で北アルプス大縦走をしたコンビである。

美女平駅からバスに10分ほど乗ると巨樹の森に至る。まだ1メートルほどの残雪があり、バス道路端に早くも立山杉の巨樹があった。樹齢1000年といわれる立山スギは、冬は4メートルの積雪の重みを枝が受けて押し下げられ、上へ伸びようとするスギの木とのせめぎあいで、筋肉が付くように枝が太くなり、力こぶを見せる腕のような形で主幹に何本も平行して伸びるという、豪雪地帯ならではの独特な形をしている。その力強さは見る人を圧倒するものがある。

美女平の立山スギは大昔、用材として一度は人間の手で切られている。そのためにさらに奇怪な形となる。大昔の木の伐採の仕方は、性の良い2、3メートルから上部だけを切って利用する方法が取られた。下部の根株や下枝はそのまま放置された。その後、長い年月が過ぎて、下枝が幹のようにまっすぐ伸びて、何本もの大木が束になって伸びているように見えるものもある。かと思えば根株に宿ったスギの苗が根株を取り込むように根を下ろし、成長したのちに、根株が腐ってなくなり、根上りの形状を示しているものもある。

立山スギ研究を長年続けている元新潟大学大学院教授の平英彰氏は、近年、最古と思われる立山スギを調査した。大昔伐採されて朽ちた主幹の中心部分を採取して、放射性炭素による年代測定を実施したところ、樹齢2000年であった。予想よりも遥かに樹齢が古いことが判った。さらに主幹が伐採されたのは1300年前の奈良時代であることが分かった。伐採当時、すでに樹齢が700年のスギであった。奈良時代に切られて何の用材に使われたのであろう。屋久杉がそうであったように、杉板に加工されて平城京へ運ばれたのであろうか。平城京で発掘された木簡にそれを示す証拠でも出れば楽しいであろう。

夏に美女平に立山スギを見に行くのも楽しいかと思う。案内地図のようなものがあるのだろうか。調べてみよう。
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月亭八天の落語講演会

(月亭八天落語講演会)

午後、金谷図書館開館5周年記念と銘打った、「月亭八天ライブラリー落語講演会」に出掛けた。「みんくる」二階の集会室で、観客は床に持参の座布団を敷いて座った。高座は会議用テーブルに赤い布で覆って作られている。舞台が無いため、椅子席にすると高座のイメージにならないから、観客を床に座らせるのであろう。

出囃子に乗って登場した月亭八天氏はどこかで見たような見なかったような、テレビの露出が少ないのだろう。1960年生れだからちょうど50歳。桂米朝の弟子の、月亭可朝の弟子の、月亭八方の弟子だという。米朝からするとひ孫弟子になる。八天にも月亭天使という女性の弟子が一人出来たという。

図書館の講演会だから、まず本との関わりの話をした。この話題の振りは少し無理があった。落語好きのSF作家・ミステリ作家とコラボした新作落語を演じるイベントを実施して、そこから派生した「はなしをノベル」という本を出している。本との関わりはその部分であろう。そこをもう少し詳しく話してくれれば、面白かったかもしれない。

興味を引いたのは、生の落語を見るときの、落語の楽しみ方の話題であった。よく聞く話なのだろうが、自分には初めてであった。次の3つに留意して落語を見ると、10倍楽しくなるという。

第1は、落語は一人で会話の双方を演じるため、どちらが話しているかを区別するため、言葉遣いや声色以外に、斜め右を向いて話し、斜め左を向いて答えるというしぐさでも演じる。歌舞伎や演劇では、舞台は向って右側を上手と呼び、左側を下手と呼ぶ。舞台装置で家などは上手に作られて、人物が登場するのは明いた空間の下手からという約束ごとがある。落語を演じるにもそれに習っている。「こんにちわ」と来る人は上手を向いて演じ、「おや、熊さん」と応じる人は下手を向いて演じる。ただ真横を向くと観客のそっぽを向くことになるから、斜め前を向くことでそれに代えている。そこに注目すれば、会話の切り換えが良く分かる。

第2は、落語には最後に「下げ」あるいは「落ち」がつく。どんなに深刻な人情話でも、「落ち」を聞いて笑うことで、観客は現実の話ではなくて虚構の話なのだと、ほっとすることが出来る。「落ち」はそういう巧みな役割を持っているという。

第3に、落語では色々な場面が演じられるが、うどんを食べる場面でもうどんはないから、いかに観客のイマジネーションを掻きたて、本当にうどんを食べているように思わせるかが勝負になる。小道具としては、扇子と手ぬぐいぐらいしかない。扇子は、箸、きせる、釣竿、手鏡、銚子、大杯などの役割を果たす。手ぬぐいも、本にもなれば帳面や財布、裁縫の布、はたまた焼き芋にも化ける。そのイマジネーションを楽しむのも舞台の落語の楽しみ方である。

最後に、落語「まんじゅうこわい」を演じて、講演は終った。
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畑仕事の1日

(裏の畑のキショウブの花が咲いた)

今日は1日畑仕事と決めた。とは言っても、朝は10時過ぎから夕方は4時前まで、昼休みを除けば実質5時間弱である。お天気は曇りで、時々日が差す程度、畑仕事には絶好の日であった。休み休み無理をせずに作業した。

昨日、女房と島田の苗屋さんに行って、夏野菜の苗を買ってきた。キュウリ2種、ナス、ピーマン、ミニトマト、甘いトウガラシ(本当かな?)、ツルムラサキ、他にゴーヤとオクラとインゲンの種を買った。苗はいずれも2本か3本、それでも家族3人では多すぎるくらいである。今年はスイカはやめた。去年は小玉スイカを作ったが、出来たスイカのほとんどをカラスに突かれてしまった。甘くなる時期を人間様より良く知っていて、人が収穫する直前に突く。今年の新顔はツルムラサキである。女房がおいしいといって買った。どんな野菜なのかネットで調べてみる。

ツルムラサキはつる性一年生の草本である。東南アジア原産の野菜で、名の通りつるが紫色のものが多い。葉と茎をおひたし、味噌汁などにして食べる。味はホウレンソウに似るが独特の粘り気がある。栄養価はホウレンソウよりも優れている。

ねばねばの野菜はどれも栄養価が高い。食べた記憶はない。蔓になって伸びるものをどのタイミングで収穫するのか、いま一つ分からない。

畑仕事の話しに戻る。自分流の土のおこし方は畝方向に沿ってスコップで土を起こして行き、起した後に牛糞と安い培養土を入れる。培養土を入れるのは畑土がやせてきて、スコップを入れるのもきつくなっているから、わずかでも土壌改良になればと思ったからである。次に、同じように起して、土を牛糞と培養土の上にかけていく。以下、同じことを繰り返していくと畑全面の土を起すことが出来る。あとは鍬で畝を作るだけである。畝間の土を畝に上げて盛り、畝を平らにならせば畝が出来る。まあ、素人細工ではこんなものであろう。

実家が農家のO氏に教わった話で、有機肥料はそのままでは野菜は養分として吸収できない。土の中にいるバクテリアなどによって分解されて初めて野菜は吸収できる。だから遅効性で少しずつ長く肥料が効く。一方、化学肥料はそのまま野菜が吸収できるから、即効性の肥料である。そう聞けば、有機肥料はバクテリアが分解するという土の中での作用が一段階あるだけに、素材にかかわらず、安全な気がする。化学肥料はそのまま吸収すると聞いただけで、何やら危険なにおいがする。

脱線したが、そんな訳で1日では作業が終らなかった。時間はたくさんあるし、慣れない仕事だから、少しずつやる方がよい。
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植物の光合成と呼吸

(庭のテッセン)

昔から持っていた疑問について書こうと思う。

温暖化が言われ、二酸化炭素の増加が問題になっている。昔、植物の炭酸同化作用(光合成)のことを学び、昼間植物は二酸化炭素から光合成で炭素を取り込み、酸素を排出していると知った。その一方、植物も生物だから呼吸をしていて、酸素を吸って二酸化炭素を出していると学んだ。その時に思ったのは、同じ植物の体内で一方で酸素を出し、一方で酸素を取り込んでいる。植物はずいぶん無駄なことをしていると思った。植物の体内でやり取りすれば無駄が無いのに、と思った。そんな疑問は自分の専門外となって、疑問のまま記憶の底に放置されていた。時々ふっと蘇ることもあったが、考えるよすがもなかった。

先日、食と健康の講座で、講師から、話の筋とは違うけれども面白い本だからと、一冊の本を読むことを勧められた。

    「ダーウィンの夢」渡辺正隆著 光文社新書

この本の著者は、講師の後輩で研究畑から離れて、サイエンスライターになった人だという。帰りにさっそく書店に寄って購入してきた。実はまだ半分ほどしか読んでいない。読み終わったら感想でも書こうと思っていた。その一節を読んでいて、なるほどそういう事なら解ると、40年来の疑問に答えを見出した。

植物の細胞内では葉緑体が光合成を担当し、ミトコンドリアが呼吸器官となっている。はじめに葉緑体が原始的な光合成細菌であるシアノバクテリアのある種のものに良く似ているという指摘があり、かつては自由に生きて光合成をしていたシアノバクテリアが植物の細胞に取り込まれて葉緑体になったとする説が出された。いったんは否定されたが、ミトコンドリアも好気性細菌が取り込まれたものとする説が加わり、植物にシアノバクテリアと好気性細菌が取り込まれて共生し、それぞれに光合成と呼吸を行っているとする説がかなり有力になっているという。

そういう共生の結果だとすれば、同じ植物の細胞内で方や酸素が生み出し、方や酸素を消費している。それが別々に起きていても何も不思議は無い訳である。

もちろん、共生といっても葉緑体もミトコンドリアも植物のDNAのコントロールを受けていて、そういう意味では今は植物の一器官になっている。どういうメカニズムでDNAのコントロール下に入ったのか、そこはまた別の問題になる。

40年前に疑問に思ったことを記憶の底にしまわないで、40年間追求し続けていたら、ひとかどの遺伝学者になっていたかもしれない。学者と凡人の違いは最初はわずかな違いに過ぎないのだけれども、40年継続するととんでもない大きな開きになってしまう。要は継続できるかどうかの違いである。
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掛川古文書講座に出席

(庭のシロバナオダマキ)

午後、掛川古文書講座に出席のため、掛川市立中央図書館に出向いた。昨年に引き続いて今年も講座を受講する。講師は昨年と同じ北原勤氏である。講師の話では掛川の古文書講座は今年で4年目に入る。昨年まで古文書入門講座だったが、今年は「入門」の2文字が外れた。今年から新たに始める人も10人ほどいるというが、ランクが一つ上がった感じがする。

今年の教材は「各和村長谷川喜三太の記録」という、一人の個人が様々な出来事を記した記録である。金谷の講座で学んだ「歳代記」の掛川版のようなものであろうか。「歳代記」が嘉永7年(1854)11月から明治18年(1886)10月までの記録であるのに対して、この記録は天明2年(1831)に始まるから、この記録のスタートの方が23年早い。しかも、後に読んでいくが、筆者の長谷川喜三太氏は金谷宿河原町から佐野郡各和村へ婿に来た人だというから、「歳代記」の筆者、松浦幸蔵氏と面識があったかもしれない。

さて、この記録はどんな動機で始めたのか、その「はしがき」に記されている。講座はその部分の解読から始まった。解読できたものを書き下した文で紹介してみよう。

去年は今年となり、昨日は今日と移りゆき、月日にしたがい面影さえも替り行く、世の中に何をか若き世の形見とはすべきと思いめぐらすに、筆の跡の外にはあらじと思うにつきても、元来さえつたなければ、雅たる言草は中々難きことにしありければ、常に言い交わす俗言もて、多々何となく世にありふれたることなりとも、見聞きにしたがい書き記しおかば、老いての後はおのが物から若き世の形見ともなり、かつは孫子の末までも伝わらんものをと思う心を、一言記してこの書のはしがきとはしつるになん
  みるめなき 磯のもくずも 浦浪の よせこんたびに かきあつめてん


長谷川喜三太氏は謙遜の言葉を書き連ねるが、なかなかどうして、文人である。末尾に詠んだ一首など、「みるめ」「磯」「もくず」「浦浪」と序詞を並べて、これから書き記す行為を磯の藻屑をかき集めるようなものだと詠う、機知に富んだ一首である。

ところで、この「はしがき」の思いは、自分が「四国お遍路まんだら」を書きながら感じていたことと共通する部分がある。自分の遍路記は「若き世の形見」とは言い難いが、もしかして何十年後かに、大人になったまーくんやかなくんがじーじが書き残した本だと、そのまた子供たちに話して聞かせ、手に取って見てくれることがあるとすれば、時間とお金を使って自費出版までしたけれども、それだけで本望のような気がする。
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