平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
家康の側室、茶阿局
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岡崎城の「家康館」で家康の側室の一覧表を見ていて、次のような記述に出くわした。
於茶阿の方(茶阿局) 遠江金谷の河村氏の娘と伝わる。同郷鋳物師に嫁いだが、夫が打ち殺されて娘を抱いて逃げる途中、放鷹に来た家康の目にとまったのがはじまりで、六男忠輝、七男松千代を出産した。
女房に記述を見せるとそういう女性がいたと知っているようであった。さっそく家に帰って調べてみた。手始めに、女房の親父に借りてきた「金谷町史」を調べてみた。
金谷町史によると
金谷町出身で家康の側室、越後高田藩主松平忠輝の母。生い立ちは不詳、伝説では八という名であり、卑しき者の妻であったが美人であったため代官が横恋慕し、先夫を殺害し、我がものにしようとした。そのため、娘を連れて浜松城に逃れ、家康に助けられ二人の子をもうけたという。「町誌稿」「町誌」では柏屋本陣・河村次郎右衛門が局の父とあるが、山田某の子との説もあり、河村氏を里親(仮親)としたものと思われる。なお洞善院には「朝覚院殿貞誉宗慶大姉」の位牌がある。(「郡誌」「中宮誌」)
茶阿局についてはその出自がはっきりしていないため、ネットで調べると色々な説が出ている。横恋慕した代官は金谷の代官であろう。おそらく掛川城の配下の代官で、掛川城にはまだ山内一豊は入っておらず、家康の家臣の石川氏が入っていた。いきなり娘を連れて大本の浜松城に駆け込み、家康に代官を訴え代官は処罰されることになった。その行動を見ると随分気丈夫で聡明な女性で、おそらく掛川城に訴えたのでは握りつぶされかねないと判断しての行動だったのだろう。家康はそんないわく付きの女性でも頓着なく側室にし寵愛している。
その後、茶阿局は奥向きの事を任され、強い発言力と政治力を持つようになったとされる。彼女は故郷の金谷村周辺の寺を保護し、寺同士の紛争の解決にも尽力し、「能満寺寄進状」などの史料が現存しているという。
現在、金谷には茶阿局を顕彰したようなものは何もない。たぶん茶阿局が金谷を後にした理由が理由だけに触れられないで今まで来たのかもしれない。町としてもう少し歴史を掘り起こす努力があっていいのかもしれない。
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