平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
「竹下村誌稿」を読む 229 驛路総説 1
午後にかなくん一家とまーくん一家が集り、大にぎわいであった。
一日、時々驟雨が襲う、不安定な天気で、夏の暑さはやや、和らいだように感じた。
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昨日で、「竹下村誌稿」の「行政改革」の項を終り、長く掛ったが、「第三章 沿革」の章を終り、今日より「第四章 驛路」の章に入る。第四章は「第一節 総説」「第二節 榛原郡に於ける東海道の駅路」「第三節 助郷」の三節からなる。(総説は今日一回で終り、明日からは第二節に入るが、「駅路」と略称する)
第四章 驛 路
第一節 総 説
駅路は国家交通文化発展の機関にして、社会百般に亘り、人類活動の上に於いて、一日も欠くべからざるものなり。
※ 駅路(えきろ)- 宿駅から宿駅へ通じる道。うまやじ。
按ずるに、榛原郡に於ける東海道の駅路は、古今一定ならず、古えは質侶にて駿河に越したるも、後、初倉となり、鎌塚となり、金谷となり、色尾となり、また質侶となり、終に金谷に復するに至れり。かくの如く変迁(遷)して、常なかりしものは、主として大井川の氾濫、及び兵乱などのため、渡津の変動を生じ、従いて駅路の興廃を来(きた)す事とはなれり。
※ 渡津(としん)- 渡し場。
而して、本村は東海道の駅路と、古来浅からざる因由ある歴史を有するものあり。元来、本村は質侶郷の一部として、東海道の駅路として、大井川の渡津として、常にその衝に当り、古代に於いて、中世に於いて、また近代に於いて、特に慶長年間の如きは、東海道の駅路として、本村を通過せしもの、十数年の長き歳月に亘り、本村の地続きに、新宿と称する今宿までも、発展するほどに立ち至り、しかも旧時の線路は今里道となりて、明らかにこれを認むべく、その名残りとして、海道里程の標識たる一里塚の跡さえ存在し、その事蹟、炳然として没すべからざるものあり。因ってその記録の伝うる大要を叙し、特にこの章をなすと云爾。
※ 因由(いんゆ)- 物事の起こりとなること。原因。由来。
※ 衝(しょう)- 必ず通る道や地点。要所。
※ 炳然(へいぜん)- 光り輝いているさま。また、明らかなさま。
※ 云爾(うんじ)- 漢文で、文章の終わりに用いて、これにほかならない、という意味を表す語。訓読の際には、「しかいう」あるいは「のみ」と読む。
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