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大井河源紀行 17  3月19日 上藤川、大蛇伝説

(庭のツリガネヤナギ)

上藤川の大島に、弘法大師作と伝わる、小長谷長門守先祖の守り本尊を祀った、弁天の小祠がある。また長門守乳母の塚という、姥神という祠がある。と書いた後、上藤川村についての記述が続く。

この上藤川村の称、処の人は小長井と呼べり。按ずるに、和名鈔志太郡の部に大野郷の名が出る。則ち、この里大野の本郷なり。今当里の枝郷は、谷畠、坂京、幡住、小猿郷、文沢河内、澤間、と分かれ、また本郷も上下と組分ける。

上組のうち平栗といふ所は、家員十三軒、大六天の祠あり。本郷より半道ばかり、大栗、穴水と云う里は、今は山家退転す。青部と田代の際の柳瀬、三杯は下組に隷(つく)なり。
※ 退転(たいてん)- 落ちぶれて他の地へ移ること。

坂京組、家員三十四戸、くぞむまの奥より、凡そ半里ばかり入り、山里にて八王子の祠あり。寺院は洞家に京昌寺というあり。この境内、山葵を多く作り出す。畠(幡)住組、家員三戸。小猿郷組、家員九戸、本郷より入ること、凡そ弐里半ばかり。また文沢河内は下泉より入る谷なり。家員八戸。沢間組は堀之内と青部との際なり。家員五戸あり。


藤泰さん一行は小長谷家を出て、さらに奥地へと大井川を遡る。大井川の岸、前山、大ぞれと云う所を過ぎ、五十町ばかりで桑野山村に至る。桑野山村は家数二十三戸、氏神は大井の神、曹洞宗の東光寺という小院がある。本尊虚空蔵。また、北山という、登りに五十町ばかりの高山がある。嶺は智者山に連なっている。さらに桑野山村に伝わる伝説を記している。

昔、この地(向い遠江の国榛原郡千頭村)の幽谷、地中に潜(ひそ)める大蛇あり。ある時、大地震動し、強雨頻るに降る、盆を傾くるごとく、烈風樹木を折り摧(くじ)く。この時に乗じ、潜める処の大蛇、地中を躍り出て、山を大井河の西に劈(つんざ)き分つ。然るに、高山の頂、震るい崩れ、数丈の磐石、一度に転倒し、大蛇の上に重なり落つ。大蛇、山を劈くの勢いありといへども、磐石の為に不意をうたれたにや、反って打ち砕かれて斃(たお)る。山中、洪水蕩々として、山を壊し、陵にのぼる。家は押し潰され、押し流され、人はこれが為に死するもの多しとなん。

後世、そこより蛇骨を出せり。上藤川村化成院の厨司、あるいは遠江の国、家山村三光寺の厨司に、かの大蛇の車骨を以って、踏台とせしに、大きさ碓(うす)の如し。大蛇の負いかえしたる山は、遠江の国(千頭村の内)沢間村の上、寸俣川の渡本より村角までの山なりと伝う。化成院にありし蛇骨は、予が同郷の人、若き時、目前に見たりと語れり。今は失いてなし。三光寺にありしは、そこの里人、川原にてひろい、いかなるものともしらざれど、踏台によかりけんとて、かの寺の履ぬぎに、さし置きたるに、ある年ころ、この台のほとりより、厨司の縁ゆか下より、小蛇多くはらばい出たるまゝ、寺中の僧俗あやしみ、不思議をなして、かの踏次を取り揚げ見れば、小蛇いくらとなく生じ、うごめくさま、みの毛よだつばかりなりしと、楹(はしら)の下など惣じて、蛇をはきあつめしに、二箕ばかりもありしとなり。速に踏台と共に大井河水に投じ流したりしと云う。


大蛇伝説の多くは、過去の山津波や土石流の大災害の様子を語っている場合が多い。桑野山村のものも、内要は山津波や土石流の有様そのものである。さらに臼のような蛇骨は、想像するに柱状節理を示す玄武岩のような岩石だと考えられる。但し、玄武岩は溶岩が地中で冷え固まったもので、大井川流域で産するという話は聞いたことがない。

自分の故郷には、かつて玄武岩を産した山があり、町中の石垣や漬物石等に、多くの玄武岩をみる。また、玄武岩をイメージした、ゆるキャラの「玄さん」はわがふるさとの人気キャラである。
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