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一の谷中世墳墓群 - 駿遠の考古学と歴史

(磐田市、一の谷公園)

昨日、「駿遠の考古学と歴史」講座に出席した。今日のテーマは「今川義元と見付町人衆 - 見付と一の谷中世墳墓群をめぐって」である。講義の内容を2回に分けて紹介する。

考古学というと、有史以前とか古代が舞台と決まっていたが、近年「中世考古学」が注目されるようになってきた。その中で、県内で特に注目するのが、磐田市にある一の谷中世墳墓群である。

一の谷中世墳墓群は、磐田市見付から北西へ1キロほどの丘陵地にある。昭和59年、宅地開発の事前調査でその存在が明らかになり、発掘調査の結果、平安時代から江戸時代の初期にかけての、3000基を越える墳墓が発掘された。丘陵を覆い尽くすばかりの数で、全国でも珍しい中世墳墓群として、研究者の間では国の史跡指定の価値があるとして、保存運動も起きたが、平成元年に全面的に住宅地として開発されてしまった。現在は、小さな公園の中に各種の墳墓が復元されて、わずかにその様子をしのぶことが出来る。

今朝、雨の降らないうちに思い、取材に出掛けた。場所は磐田バイパスの豊田東インターで降りて、東へ少し行ったところである。住宅地の中の一の谷公園内に復元墳墓があった。塚墓、集石墓、土坑墓、火葬遺構などがサンプル的に復元されていた。


(塚墓)


(集石墓)

これだけ多くの墳墓群がどういうきっかけで作られ始め、江戸時代になると全く顧みられなくなって、宅地開発の計画が始まるまでは、まったく放置され、雑木林に戻っていたのであろうか。有史の時代に、この墳墓群の存在を語る文献は全く無いのであろうか。いくつか疑問が起きる。

この丘陵地に墳墓を作り始めたきっかけは、遠江国府の移転という事件が関わっている。古代の遠江国府は現在のJR磐田駅の南側の二之宮遺跡辺りにあったと考えられている。それは二之宮遺跡から発掘された木簡などから想定される。奈良から平安の半ばにかけて、温暖化により、「平安の小海進」が起きて、旧国府周辺が沼地化したために、3キロほど北で、標高が6~10メートルの見付の地に国府が移転されたと考えられている。

国府の移転に伴って、死者の埋葬の地として選ばれたのが、一の谷の丘陵地だった。それ以降、見付の町で亡くなった人は、一の谷に葬られるようになった。墳墓の形式は身分や時代によって異なる。土葬から100年ほど遅れて、火葬も始まった。

一の谷中世墳墓群は文献には出て来ない、中世の葬送方法の時代的な推移を知る上で、大変貴重な遺跡である。(つづく)
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