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今子浜かえる岩から、平家落武者部落「御崎」へ




(今子浜のかえる岩と千畳敷)

故郷豊岡にまだいる。午後、次兄が変えたばかりの車、長兄と3人で出かけた。国道178号線を西へ進んだ。郊外に出ると残雪が多く見られた。トンネルを抜けて、奥竹野、奥佐津と山の中を通って、柴山漁港で海のそばに出た。柴山漁港は外海が見えない良港である。嵐を避けるには最良の港であろう。たくさんのランプを付けたいか釣り船が何艘も舫ってあった。柴山漁港から香美町の香住漁港に向かう途中に今子浜があった。見たことのある景色に車を止めて貰った。

今子浜は、昔、小学校の低学年の遠足の目的地の一つであった。最寄の駅まで汽車で行き、駅からジャリ道を、岬を巡って今子浜まで歩いた。浜には千畳敷と呼ばれる平らな岩場があり、そばにはかえる岩と名付けられた、うずくまるガマ蛙に似た岩があった。日本海は潮の干満がほとんどないので、波が上がってくることのない千畳敷で、お弁当を食べたのであろう。景色だけが記憶の中にあって、遠足そのものの記憶はほとんど失われている。兄たちを車のそばへ残して、少し歩き回った。ここから岬へ出た大引の鼻からは、日本海へ夕陽が沈む様子が眺められ、「日本の夕陽百選」に選ばれているという。入り江のほとりに立派な宿があり、一泊してみたい所であった。冬場の現在は小さな浜は静まり返っていた。

香住漁港を抜けて、余部へ出た、日本一高い鉄橋といわれた山陰線余部鉄橋も、コンクリートの橋に架け替えられた。その直下にはまだ鉄橋の残骸が置かれていた。長年潮風にさらされて、たびたび行われた塗装にもかかわらず、さびがかなり深く進んでいて、コンクリート橋への架け替えも止むを得ないことだったと思った。既存の鉄橋を使いながら橋を架け替えるには、テクニックが必要だった。橋にかかる直前まで、鉄路はトンネルの中だから、大変難しかったようで、下から眺めると鉄橋の付け根辺りを、軽くカーブさせて逃げているのが判った。今までの鉄橋も記念物として一部壊さずに残されているが、観光資源としてはもう価値がないのかもしれない。


(平家落武者集落、御崎より)

余部の先から、脇へ逸れて、岬を巡る道に、次兄は車を進めた。その道の先に「御崎」という集落があり、子供たちは夏は余部小学校まで通っているが、冬場は分校が開くという。崖っぷちを怖いような道で、しばらく海沿いを進んだ。御崎は平家の落武者の集落だといわれている。壇ノ浦で敗れた平家の落武者が、隠岐の島へ逃れようと日本海を進むうちに、流されて当地へ着いた。おそらく人が住む村へ出る道もなく、その地で住み着いたものであろう。いつ頃に発見されて日本社会に組み込まれるようになったのであろう。おそらく色々な古文書も残っているのであろう。調べてみるのも面白いかも知れない。
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