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「竹下村誌稿」を読む 194 竹下村 54

(庭のデュランタ・タカラヅカ)

タイワンレンギョウともいうらしい。庭のこの花は、剪定をし過ぎてしまうのか、花を見ない年もある。

夕方、雷鳴がしたが、雨は地面を濡らした程度で終った。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

(浜名郡誌の大念仏の項、昨日の続き)

空は曇りて、咫尺も弁ぜず。その上、不知不案内の地理なるを以って、圧(お)され圧されて、千仭の犀ヶ崖に真倒(まっさかさ)に墜落し、酸鼻の極みを呈したり。これが為、深き犀ヶ崖も人馬にて埋まりて平地となり、血は流れて涿鹿の河をなし、紅波盾を漂わし、骸(むくろ)郊原に満ちたり。それより、彼らの亡魂は、毎年七月十三日の暮れ方より、終夜、犀ヶ崖の中にて哭声(やかま)しく、往来の諸人、大いに恐怖し、実に物凄(ものすご)かりき。この哭声は浜松城中にも響きて凄惨を極めたり。
※ 咫尺(しせき)も弁ぜず - 視界がきかず、ごく近い距離でも見分けがつかない。
※ 酸鼻の極み(さんびのきわみ)-見るに耐えないほど悲惨な状態。
※ 涿鹿(たくろく)- 涿鹿の戦いは、古代中国の伝説上の戦い。
※ 郊原(こうげん)- 郊外の野原。
※ 哭声(こくせい)- 泣き叫ぶ声。
※ 凄惨(せいさん)- 目を背けたくなるほど、いたましいこと。


家康これを聞きて、憐憫の情を起し、開運の後、宗源院を召し出し、「かの亡者(もうじゃ)、宇宙に迷うこと、不便(ふびん)の至りなり。これより、かの所に庵室を結び、常念仏を行なうべし」との台命を下だす。宗源院は仰せを承わりて、清雲庵を営み、宗円と称する道心者をして、常念仏を勤めしめ、昼夜怠らざりき。家康なお心安からず、「遠州一ヶ国大念仏を始め、犀ヶ崖の亡者を鎮(しず)むべし」との台命を下したり。これより国中一般に大念仏を行なうに至れり。
※ 常念仏(じょうねんぶつ)- 絶え間なく念仏を唱え続けること。
※ 台命(たいめい)- 将軍や三公など貴人の命令。


この大念仏は、敵方の亡者を取り挫(くじ)くにあるを以って、その勢を猛(たけ)くし、その行装あたりを払い、鉦・太鼓・笛の音につれ囃す声、天に響き地を動かし、亡霊鬼神も恐れをなし、仮令(たとい)如何なる悪霊たりとも、退(の)かざるを得ざる有様なりき。以来、亡魂の哭声静まり、諸人の往来も安全なるに至れりと云う。
※ 行装(ぎょうそう)- 外出の際の服装。旅のいでたち。

その後、水野越前守領主たりし頃に及び、厳禁せられたるも、後、井上河内守に至りては、却ってこれを奨励し再興せらる。明治初年に至り、時勢の変迁(遷)につれ、自然に衰え、その道具などをも売却するもの多きに至れり。その方法、従前は頗る厳格なりしものにして、兄弟村、附合村などと称し、交際上、一定の規律ありしに、現時に於いては、その影だも止めず。ただ有志者によりて組織する位なり。

(浜名郡誌の大念仏の項、明日に続く)
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