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「竹下村誌稿」を読む 198 竹下村 58

(自家製紫蘇ジュース)

炭酸で割ると、泡が何とも涼しげであったが、デジカメを用意する間に、泡が消えてしまった。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

また、享和元年(1804)四月、前記秣(まぐさ)場の件にて、牛尾、嶋、竹下、番生寺、横岡の五ヶ村と、神尾村と再び出入あり。済口取り替わし証文、次の如し。

         秣出入済口取り替わし証文の事
一 神尾山秣出入の儀、近郷、牛尾村、竹下村、番生寺村、(嶋村)、右四ヶ村より出入に及び、八年以前寅年(寛政六年)、篠原村庄屋伊右衛門、西郷村庄屋善右衛門、取り扱いを以って、向後四ヶ村より金弐両ずつ、年々秣代として、差し出し候形を以って、双方納得の上、取り治まり候処、

三年以前(寛政十一年)未年、横岡村差し加わり、五ヶ村願い出で候は、隔年に火を入れ、雑木林、荊棘(いばら)など焼き捨て申さず候ては、連々柴草減少仕り候段、申し立て、破談に及び候処、千羽村庄屋藤兵衛立ち入り、金壱両増金致し、五ヶ村願いの筋、御取り扱い、済口証文までに及び候処、神尾村願いの筋、申し立て、なお又破談に及び、
※ 連々(れんれん)- しだいしだいに。

去る未春より、再応(再び)御吟味御座候処、去る暮れ、双方召出され、御会所に於いて、種々御利解仰せ聞けられ、内済仕るべき旨、仰せ渡され、取り扱いとして、中野村庄屋左五兵衛、富部村庄屋弥一右衛門、平民村庄屋為右衛門、仰せ付けられ、旧冬より度々御掛け合いこれ有り候処、熟談相調い兼ね、追々御日延べ願い上げ奉り、

当月十三日より、扱い人中、並び双方ともに打ち寄り、内済の趣意、段々御掛け合いこれ有り、今般内熟(内済熟談)相調い、双方納得仕り候。則ち内済の趣法、左に箇条の通り、相定め候事。


一 字神尾山定納山へ五ヶ村より入り込み候大境の儀は、八年已前出入り内済の節、相定め候通り、南は横岡山続き御林を境、大沢までは川根往来道を境、大沢より日向平の内は七曲り道より、地蔵峠までは休み場より、大井川へ見通し、裏山は福用村往来道上絶頂まで、北は福用山境、西は大代山、横岡山峰通りを境に、五ヶ村より入り込み候、大境に相定め候事。

一 表山の内、大沢を境に、天王平の儀は古来御高入れの場所もこれ有り候に付、扱い人並び双方立合い内見分の上、御高辻に准じ、凡その分量を以って、北は天王森浦より二本松の下、古き石碑を見通し大沢まで、南は右天王森未申の角より辰巳の方へ、筋違いに畑道より中腹の山道へ取付、作左衛門自林境を見通しに榜示相定め、右見通し境より東、高内の場所は、五ヶ村より向後立ち入りまじき旨、その余は鎌を持て下刈柴草ともに、五ヶ村へ刈り取るべく定めの事。
※ 岨(そば)- 山の崖が切りたってけわしいところ。絶壁。
※ 榜示(れい)- 杭や札を、領地・領田などの境界の目印として立てること。

(この証文、明日につづく)

読書:「医学生」 南木佳士 著
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