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「旅硯振袖日記 中之巻」 3

(家のシャコバサボテンの花)

午後、名古屋のかなくん一家も帰って、我が家に静けさが戻った。
Y家の古文書を読み始めた。御触れの写しの文書だが、内容がこの地にそぐわないもので、読んでいて面白い。昨日今日で7ページほど読んだ。

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「旅硯振袖日記 中之巻」の解読を続ける。

またこの所の名を問えば、律儀一偏の百姓ども、娘の言葉にもらい泣き、手鼻かみつゝ言いけるは、
「それはまあ、可哀そうなこと、とかく継母に憎まるゝは、どこの田舎にもあることじゃ。こゝは土山の青田村。あの庄屋殿に話したら、慈悲深い人だから、貴様の事も世話するであろなんと。この事を話してやろではござらぬか」と言えば、二人も「おお、それ良かろう、姉い、そこへ待って
いなされ」と、三人連れ立ち、急ぎ行く。

写絵は百姓らが優しき言葉を聞きしより、少しは心を休めけり。かくて半時ばかり過ぎし頃、年の齢(よわい)は六十路を越えし、田舎づくりの片親父、短き裾に引替て、長きは羽織とはけさきの、真っ直ぐに歩み、この所へ来るを見るより、写絵はさてはと早く会釈すれば、庄屋直(すぐ)兵衛、写絵に向かい、
※ はけさき(刷毛先)- 江戸時代、男子が結った髷 (まげ) の先端。

「こなたの事は、村の者の話で詳しく聞きました。ああ、さぞ難義であらうのう。今は鎌倉殿の軍功で、斬ったりはったりも止んでしまい、あれ程な鈴鹿の関も止めになつて、もう押っ付け皷の判官様も、鎌倉へ御帰りなさると、今朝ほどの御沙汰。あゝ、喧(やかま)しやの厄介払い、その厄介払いで言うではないが、足の不自由なこなた(此方)をば、いつまでもこゝに、おいてやるにて、やりたけれど、それでは返って気も済むまい。

どうで吾妻へ下る気なら、車をも拵えさせ、路銀も骨を折ってやる。まあ、それまでは、こゝより近い村の入口の、辻堂ヘ二日、三日いるが良い。車が出来たら、雨露を凌いで、吾妻へ行かっしゃれ」と、慈悲と情けの直兵衛が言葉に、写絵は先刻よりうれし涙にくれいたるが、ようやく直兵衛にうち向い、

「思いがけないあなた様の御情けに、預かりまし、不自由な身も苦にならず、遠い吾妻へ行かるゝように、路銀まで下さるとの事。この大恩をいつの世に如何にして送りましょう。冥加の程もおそろしい」と言うを、直兵衛押し止め、

「ああ、これ/\もう良いわいの。貴様じゃとて、どういう事で、また出世せまいものでもない。今のつゞれも綾錦、玉の輿にも乗るのが女。足の悩みも神仏の力を頼むが肝心」と言い捨てにして、帰らんとしたる直兵衛。
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