平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
上越秋山紀行 上 1 自序
今日も雨、午後掛川古文書講座へ出席する。課題は「延享四年佐野郡東山村明細帳」である。今日は半分ほどしか進まなかった。次回には読み終えるであろうから、ここへ書き込むのはそれからにしよう。どこの村でも領主が替ると、村の現状を新領主にレクチャアするために、村の明細帳を出した。だから特に珍しい文書ではないけれども、この文書には多くの興味深い所があったので、ぜひここに紹介したいと思う。ただ、紹介は読み終える一ヶ月後になるだろう。
昨日の予告通り、「上越秋山紀行 上」の解読をはじめよう。この紀行の経緯など、ここで説明するまでもなく、著者によって、「自序」及び紀行文の冒頭で述べられているので、早速その解読からはじめよう。
自序
世挙(こぞ)って信越の境、秋山を指して、平家の落人と唱え来たれど、平氏は何れの後胤と云う素性だに知るものなし。適々(たまたま)系図を持ちたる、小赤沢なる福原平右衛門が家の棟に、薦包みにしたる一軸ありと云うとも、そは秋山人さえ、古えより見る事を免(ゆる)さず。増して況んや他郷の人をや。
その除(ほか)、名刀、鎗、釼(つるぎ)などは、四十六年の昔、卯の凶年に困窮して、飢死する前後に、皆食物に里人と代替して、只これは古代と思う黒駒太子の御影(おすがた)のみ。それさえ絹地なれば、最て上代の品とも思われず、ただ正直一遍にして、里人と婚姻を結ばず。粟、稗、栃の類いを常の食として、農を楽しむ。
※ 卯の凶年- 天明三、癸卯年。江戸時代中期の1782年(天明二年)から1788年(天明八年)にかけて発生した飢饉である。
※ 黒駒太子(くろこまたいし)- 黒駒に乗る聖徳太子。山岳宗教と結びついていた。
※ 最(さい)て- 最も。この上なく。
※ 正直(せいちょく)- 正しくてまっすぐなこと。ここでは血筋が通っていることを示す。
予、倩々(よくよく)勘考するに、平氏の後胤と云えども、この辺土の者さえ知らず。これ必ず平家は城氏ならんか。その由を察するに、鎮守府将軍平維茂より四代の後胤、奥山太郎の孫、城の鬼九郎資国の嫡男、城の太郎資長の代まで、高田の辺り鳥坂山に城郭を構え、一国に威勢を震い、謀叛を企つ。
※ 辺土(へんど)- 都から遠く離れた土地。辺地。
※ 城氏(じょうし)- 平安時代から鎌倉時代初期に越後国に栄えた豪族。桓武平氏大掾氏の一族。
折柄、鎌倉将軍家の御教書にて、上州磯部の郷より、佐々木三郎兵衛西倉入道、打(討)手に向う処へ、櫓のうえより、城越後守資長の姪、小太郎が為には伯母なる、板額女が箭先に、流石の鎌倉勢さんざんに射立られるに、信濃国の住人海野小太郎行氏が一箭に、櫓より射落され、終に落城の期となり。一族打死、或は自害、又は千隈河に付いて、奥州へ逃れ降るとあれば、秋山の入口、見玉村は、この信州に殆んど近し。往き先、敵中にて、必ずこの落人、中津川の水上の深い渓(たに)に遁れ、栖(すみか)とせしならん。
※ 御教書(みぎょうしょ)- 平安時代以後、三位以上の公卿または将軍の命を奉じてその部下が出した文書。鎌倉幕府の関東御教書。
※ 千隈河(ちくまがわ)- 千曲川。かつては越後川口まで千曲川と呼ばれていた。(現、信濃川)
爾今、大樹欝茂して森々たり。豈(あに)七百年のその昔、想像するに堪えたり。庶幾、後人の追考を待たむ。
時に文政十一天戊子(つちのえね)孟冬
秋月葊(あん、庵)牧之(ぼくし)誌す
※ 爾今(じこん)- 以後。爾今。
※ 庶幾(しょき)- 切に願い望むこと。
※ 天(てん)- 物事の最初。はじめ。
※ 孟冬(もうとう)- 陰暦10月の異名。冬のはじめ。初冬。
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