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峡中紀行上 10 九月八日、猿橋に宿す

(散歩道の白の藤の花)

荻生徂徠著の「峡中紀行 上」の解読を続ける。

更に前(すす)めば、大松樹、路の左に偃(ふ)し、枝皆横指す。長さ数丈、千年外(以上)の物なり。聞く昔、一貴人有り。銭千貫を捐(すて)ては、郵致せんと欲す。而して能わず。故に名付けて千貫松という。五太夫毋乃(むしろ)その銅臭を嫌うや。然るといえども、清高の操を以って、富有の称を兼ね、揚州の鶴にあらざるを得んや。
※ 郵致(ゆうち)- 宿送りにする。
※ 毋乃(むしろ)-「毋」は「母」とは別字。「なかれ」「なし」と訓じ、禁止、打ち消しを表す。
※ 清高の操 - 清らかですぐれている節操。
※ 富有の称 - 金持ちという呼び名。
※ 揚州の鶴 - 昔、揚州の街に、役人になりたい人、大金持ちをになりたい人、鶴に乗って天に遊びたい人がそれぞれいた。最後の人は、役人になり、腰に十万貫の金を付け、鶴に乗って飛び回って遊びたいと言った。この話から馬鹿げたあくなき欲望の事を「揚州の鶴」と呼ぶ。


狗目嶺(峠)を踰え、新田有り。一名は恋塚と云う。何物の村がこの媚嫵の名を留むるや。以って鳥沢駅に至りて、皆山路なり。日暮れ僕従疲るゝ事甚しく、民家遠し。炬火(たいまつ)の前導無し。轎夫の脚、巌稜を探りて、以って進む。時に或は虚を蹈みて躓く。轎、輙(すなわ)ち、その肩上に跳(はね)て已まず。杌隍、墜んと欲するもの、数(しばしば)なり。
※ 嬪(ひん)- 婦人の美称。ひめ。
※ 媚嫵(びぶ)- 愛らしい。
※ 轎夫(きょうふ)- 駕籠かき。
※ 杌隍(げつこう)-不安。


遂に轎を下りて冥行し、以って、所謂(いわゆる)猿橋なるものの処に及ぶ。前行の者、還りて報ず。橋版(板)穿ち、且つ梁撓み、支えざる如くにして行くべからずと。
※冥行(めいこう)- 暗い中行く。

躊躇久しうして、一(僕)の店を探す者の、炬(たいまつ)を操(あやつ)り来るに会う。店の主人もまた来り、迓(むか、迎)う。相語り、これ猿王の架する所、長さ十一丈、水際に達する事、三十三にして、水の深き事もまた三十三尋と。
※ 猿王(えんおう)- 豊臣秀吉のことを指す。
※ 尋(ひろ)- 両手を広げた長さのことで、長さの単位。六尺または五尺をあらわした。


則ち、(僕)に命じて、身を欄外に跳(おどら)して、左手は欄に拠り、右手に炬を垂れて、倒(さか)しまに照らす。傍らより下(しも)黒深を瞰(うかが)うに、火力短くして及ばず。(僕)(ますます)その臂(ひじ)を俛(ふ)せ伸ばす。遂に火燄逆上して、手を焼かんと欲することを致す。輙(すなわ)ち、遽(にわか)に棄つ。墜ちて水際に至りて迺(たちま)ち滅(き)ゆ。

予これに縁(そい)て目送りし、その未だ滅えざるに及びて、彷彿たるを覩(み)ることを得るなり。皆その言の如し。橋下一柱無く、両岸より鉅財を累(かさ)ね架(か)し起す。上なるものは、下なるものの外に必ず出ること、尺許りにして、愈(いよいよ)(かさ)ね愈出して、以って相近づいて、これを橋することを得たり。誠に神造りなり。崖、光り滑らかにして、縫(ぬいめ)(さけめ)無し。削立するが如く、然り。
※ 鉅財(きょざい)- 大木材。

土人云わく崖腹に釜あり。神蛇ここに穴す。歳旱には民聚(あつまり)て、尽かさずその釜中の水を汲み、蛇見れば、則ち雨降る。驚いて問う。何を以って釜の処に至ることを得る。迺(すなわ)ち云う。土人于土に生じ、于水に長ず。その手足を束ねて橋下に投ずといえども死せず。聞く者、皆舌を吐く
※ 歳旱 - ひでり。旱害。(「歳」は「作物の実り」の意あり。)
※ 于土(うど)、于水(うすい)-「于」は「この」と読む。「于土」この地。「于水」この川。
※ 舌を吐く - 非常にあきれる。


また問う。崖石縫(ぬいめ)して無き如し。豈(あに)苔滑かにして、然ら使むるか。云う、一駅百家を連ねて一片石の上に在り。則ちこの川もまた一大石渠耳(のみ)と。益異聞に駭(おどろ)く。遂に于駅に宿す、夜寒甚し。
※ 石渠(せききょ)- 石の溝。
※ 于駅(うえき)- この駅。猿橋宿を指す。
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