goo

駿台雑話壱 12 心のめしい(一)

(庭のクリスマスローズ - 今年最初の一輪)

室鳩巣著の「駿台雑話 壱」の解読を続ける。

  心のめしい(盲)
座中また一人言うは、翁の仰せらるゝごとく、吾党の士は、相戒めて実行をつとむるこそ、邪説を距(ふせ)ぐ上策と申すべく候。されば孟子も揚墨を距(へだ)て、好弁の譏(そしり)をば辞し給わねども、その要を論じて、君子はに反(かえ)るのみというに帰せられ候。況んや、今偽学詭弁の徒、野辺に生(お)うる葛(かずら)のごとく這い広ごり、邪誕妖妄の説、林に落つる木の葉の如く繁ければ、それに随いて弁説を費やさんは、反ってわが道を浅はかにするにて侍りなん、この頃の事にて候。
※ 揚墨(ようぼく)- 楊子と墨子。
※ 経(けい)- 正しい筋道。正しい道理。
※ 邪誕妖妄(じゃたんようもう)- よこしまで、でたらめ、あやしくみだりな。


ある儒者の説とて、耳を驚かす事をこそ承り候らえ。道は天地に出るにあらず。聖人の作り給える事なり。又いう、道は、事物当然の理にあらず。文雅風流のものなり。又いう、五倫の内に夫婦の親しみばかり天性なり。その外、君を尊び、父母を敬うの類いは、人の性にあらず。聖人の作り出せる道なり。その作者、聖人なる故に、古今に行われて変ずる事なしとぞ。
※五倫(ごりん)- 儒教で、人の守るべき五つの道。父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信。

古より邪説多しといえど、これほど乖(そむき)戻りぬる事は承らず。言えば言わるゝものに候とて、互に言い合いて笑いけるに、翁聞いて、諸賢は東坡日喩の説を見給えりや。生れつれて盲たる人あり。目は如何様なるものと思いて、かたえの人に問えば、目はかく円(まどか)なりとて、銅鑼を探らせけるに、銅鑼を叩いて、さては目は声ある物と思えり。又かたえの人言うは、目は光あり。燭の至る時には、おのずから明るきように覚えぬべし。その如しというを聞いて、蝋燭をなでゝ、さては目は細く長きものと思えり。
※ 東坡(とうば)- 中国宋代の文人、蘇軾(そしょく)の号。
※ 日喩の説(にちゆのせつ)- 蘇軾の文。「学問は日々の積み重ねが肝要という寓話」その現代語訳。
『南方には水に潜れる人が多い。毎日水に親しんでいる。七歳になると川を(安全な場所を選び)渡れるようになり、十歳になると水に浮かべるようになり、十五歳になると潜って泳ぐことができるのである。そもそも、潜る、というのはどうして簡単にできることだろうか。簡単ではない。必ず、水の道(水の性質、力)を感じ体得して始めてできることである。毎日水に慣れ親しんで、やっと十五歳でその「水の道」を体得することができるのだ。生まれてこのかた、水のことを知らない者は、大人であっても舟に乗るのを怖がる。そうだから(水に親しんでいない)北方の勇者が、潜水している者に質問し、潜水の方法を聞いて、その教わった方法を黄河で試してみたなら、溺れない者は今まで誰もいないのである。だから学問を積まずに「道」がわかる、などと思っているひとは、この「北方の潜り方を学ぶ勇者」のようなものなのだ。』

(この項続く)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )