goo

明治の改暦、金谷宿の騒ぎ

(クリスマスナイトツアー №1 島田市某所)

この年末の忙しい時に、悠長な話題で申し訳ないが、今日は暦の話である。新しい明治の時代に、旧弊を廃止、世界標準に暦を合わせるという高い理想のもと、明治5年に太陰暦から太陽暦に暦が改められた。改暦に際して地方の金谷宿でどんな騒ぎがあったのか、「歳代記」にも少々であるが記事がある。以下書き下した記事を記す。

明治五(申)年秋より、風聞に、新暦に相改められると申す事にて、当(申)年までは大陰暦、明年より太陽暦と、いよいよ十一月二十五日に御布告、十二月は朔日二日を十二月一ヶ月と定め、三日は太陽暦一月一日と定め、にわかに正月元旦に相成り、すす払い致す家もあり、餅つきの家もあり、大騒ぎなり。

秋から噂があって暮れにはいきなり改暦と、準備期間もない突然の布告であった。「歳代記」には「11月25日に御布告」とあるが、実際には11月24日に布告が出ている。太政官布告も古文書の一つだから、判りやすく読み下して記すと、

明治十一月二十四日(※旧暦)太政官布告
今般、太陽暦を御頒行に付、来たる明治六年に限り、各地方において略歴版刻を差し許され候条、出版・販売致したき者は草稿をもってその管轄庁へ願い出で、許可を受けるべき事。但、略歴は御頒行太陽暦を標準と致すべし。
旧暦中、歳徳・金神・日の善悪を始め、中下段中掲載候不稽の説等を増補致し候儀、一切相成らず候。もっとも、世上の便利のため、時刻表等を加入候儀は苦しからず候事。

※「頒行」は、広く配布すること。頒布。
※「歳徳」は、陰陽道で、その年の福徳をつかさどると歳徳神がいる方角を示したもの。明きの方・恵方(えほう)といい、万事に吉という。年によって方角が違う。
※「金神(こんじん)」は、陰陽道で祭る方位の神。この神がいる方位に向かって土木を起こしたり、移転・旅立ち・嫁取りをしたりすることを忌む。
※「不稽の説」は、根拠のない、でたらめな説。
※「時刻表」は、時間と刻の対応表。たとえば「午前0時は子の刻 」など。

実際の改暦の太政官布告はその前、明治5年11月9日に詔書を引用する形式で出ている。この太政官布告は、現行の暦の根拠になる法律として、現在も生きている。詔書では太陽暦の正確さや便利さが述べられ、来る12月3日をもって太陽暦に移行する旨、述べられている。

明治政府が改暦を急いだのは台所事情があったようだ。まだ徴税制度も十分確立しておらず、新政府にはとにかくお金が無かった。公務員の給料を月給制にしたばかりで、翌年の明治6年は旧暦ではうるう年で、一年が13ヶ月ある。石高(年俸)なら変らないが、月給制だと1ヶ月余分に払わねばならない。このタイミングで太陽暦に移行すれば、翌年の1ヶ月は無くなり、さらに今年は11ヶ月分で済んでしまう。つまり2か月分の給料が節約できるわけである。

突然の変更に、すす払いや餅つき以外に、年末は掛売りの集金があったはずで、それが一ヶ月も早まれば大騒動だったはずなのだが、「歳代記」にはそのような記述が無い。おそらく、切替えたのは役人だけで、民間が切り替わるのは何年か時間が掛かったのだろうと思う。現代でもなお旧暦が習慣の中に残っているくらいだから。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )