平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
古文書解読講座の教授一年目の総括

やっと今年は収穫が出来ると、見てきたデコポン、ネットで見れば収穫は3月から4月とあったので、まだまだと思っていたら、今日、ヒヨドリが突いているのを女房が見付け、つつかれたものを収穫して、食べてみた。もう一人前に甘い。鳥が突くのは甘くなっているからだというが、その通りであった。そのまま置けば鳥の餌食になる。そこで、30数個収穫した。そのまましばらく保管してから食べれば美味しく頂けそうだ。まだ20個ぐらいは木に残っていて、今年初めて収穫らしい収穫が出来た。年々、収量は増えるはずである。
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金谷宿大学の「古文書に親しむ(経験者)」講座を引き受けて、事前の教授会で、右も左も知らないまま、理事にさせられた。四月から月一回、2時間のコマが決まり、学生が11人でスタートとなった。
昨年の秋、前の教授から引き受けることに決め、最初に心配したのが、教材としての古文書が手に入るかという点であった。もちろん、現物ではなくて、コピーが入手できればよいわけだが、全く当てがなく、前の教授から少しなら自分のところにある古文書を使ってくれてよいと言われたのと、女房の父親の実家に古文書があると聞いていたのが、わずかな頼りであった。
駿河古文書会の会員T氏を紹介してもらったのは、そんな時であった。会の後、紹介者のO氏と3人で近くの喫茶店に入り、話をした。T氏は若い古書店主であった。仕事上、手に入る古文書の内、静岡県近辺のものをたくさん保管されているという。自分の趣旨を理解して頂き、教材としての古文書を無償で提供して頂けることになった。これで、講座が無事開けると確信できた。
まず、T氏の倉庫を訪ねて、古文書を借りて来た。コピーを取らせてもらい、凡そ、自分の計算で2年分ぐらいの教材を手に入れた。無償とは聞いていたが、自分の気持として、T氏の古文書保存活動に、幾らかをカンパさせてもらった。そして、講座が無事スタートした。
講座を始めるにあたり、自分で心中に決めたことが幾つかある。今までの講座は金谷を中心にした村方文書が主であったが、これからは、一応範囲を県内へ広げて、様々な古文書を読んで行こうと思った。それがT氏の教材の集まる範囲でもある。
手初めには、ざっと見て、自分に無理なく読めるものを教材にしようと思った。いきなり難しいものに挑戦すればきつくなる。経験者ばかりが集まった講座で、優しすぎると言われるかもしれないが、しばらく時間をもらうことにした。
今まで一時間半の講座の時間を2時間に増やして、教材をどんどん読んで行こうと考えた。教材は幸いたくさんあるし、何よりも自分が読んでみたいものばかりで、どうしても前のめりになる。その分、教材には、解読した後に、必ず、解読と読み下しの解答を渡すことにした。
さらに、座学だけではなく、時には課外で、古文書の現地を見学するようなこともやってみたい。もっとも、これはまだ実現していない。
一年で、これから読む分も含めて、B4の用紙、74ページ分をよむことになる。おそらく同様の講座では最多量になるのではないかと思っている。古文書解読に腕を上げるには、どれだけ多くの古文書を読んでみるかだと、自分は考えている。その証拠に、この一年必死に読んできた自分自身が、この頃、古文書を読むことに自信のようなものが出来てきた。今ではどんな古文書でも、時間を頂ければ、読めないものはないと、不遜なことを、つい口走りそうな自分に気付く。
読書:「under the bridge」 堂場瞬一著
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おやじの井戸端講座、受講料の不思議

昨日、歴史講座「金谷の歴史あれこれ2」に出席したことは書いた。その受付で耳を疑うような出来事があった。
この講座は、金谷公民館で開かれている「おやじの井戸端講座」の内、一般へ公開された講座で、電話で参加を申し込んだところ、参加料200円がかかる話があり、受付でお願いしますと言われた。受付で支払うとは違ったニュワンスだったので、あれっと思ったが、聞き流していた。
この参加料、昨年も同じ口座があったけれども、取られなかった。聞けば「おやじの井戸端講座」も、年間1000円取られるようになったようだ。公民館主催の講座で、公民館の使用料を参加者から徴集するのも、どうかと思うが、市の財政がそれだけひっ迫していると言われれば、やむを得ないことではある。
節約する所が違うだろうと思うが、市長の方針に、生涯学習に対する意識が薄いのだろうと、理解するしかない。掛川市の講座にも参加しているが、さすが生涯学習を旗印にしている町だけあって、参加費を取られることはないし、市のバスを使って、無料で見学会まで催してくれる。参加者が年々増えて大盛況である。
さて、受付で耳を疑ったのは、参加料の200円を受付では受け取らないで、一枚の納入通知書を渡されて、指定金融機関で払い込んで下さいと言われたことである。
昨日は日曜日だったから、参加者は、200円を納めるために、日を改めて、もう一度金融機関まで出向かねばならない。それがこのような田舎町でどれだけの手間であるのか、知らないわけでもあるまい。車を持たないお年寄りは大変である。車があっても、下手をすれば、参加料以上のガソリン代が掛かってしまう。
職員に現金を扱わせない配慮があるのかもしれない。けれども、高々数千円のお金を誰が誤魔化すというのであろう。上で起きた不祥事で、襟を正すことを求められるのは、いつでも無関係な末端の職員である。そして、その結果、不便を強いられるのは、必ず一般市民である。
思わず口に出し掛けたが、ぐっと飲み込んで会場に入った。出席者が昨年より、かなり少なくなっていた。200円が効いているのだろう。同じように来年も実施するならば、200円の納付手間を考えれば、さらに参加者が減ることは目に見えている。
それではどうすれば良かったのか。簡単なことだと思う。受付でお金は徴収して、「おやじの井戸端講座」の名前で、何人分と名簿を添付して、納付すればよいだけの話である。金谷宿大学でも同様の納付をしたが、講座の教授が口座ごとにまとめて納付した。
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ファミーリーヒストリー「斉藤由貴」を観て

夜、女房に呼ばれて、NHKの「ファミリーヒストリー」の放映を観た。今日は、女優・斉藤由貴さんのストーリーであった。母方の曾祖母、速水弘子さんを調べて、当地金谷まで取材に来て、御近所がカメラにとらえられていた。忘れられていた曾祖母のお墓が金谷で見つかったということが、ストーリーの主要なパートになっていた。
曾祖母のお父さんが、この五和村(明治になって、周囲の村が大合併して出来た村)の初代村長(戸長と呼ばれた)をやった渡辺真一という人で、実はこのブログで、ひょんなことから、調べて3回ほど取り上げていた。(2010-06-23、2010-06-30、2010-08-10)
今、読み返してみると、NHKの取材で、渡辺真一氏に関する部分は、どうやら、このブログで自分がたどった跡を、ビジュアルにトレースされたもののように感じた。テレビにも映っていた、御先祖の頃に分れた親族の子孫と紹介されていた、渡辺治男さんの話によれば、取材の人もこのブログのコピーを持っていたという。(以前に渡辺治男さんにはこのブログのその部分をコピーして差上げてあった)
NHKの取材開始に当たって、情報を得るために、まずネットを検索されたのだろうと思う。ネットには、マイナーでローカルな話は意外と少ないから、ネットを検索すれば、このブログに容易にたどりつけただろうことは想像できた。
まあ、このブログが少しでも役に立ったとするなら、悦ぶべきことなのだろう。番組は、斉藤由貴さんの、感動の涙もカメラにとらえられて、大成功だったようだ。NHKの取材の一端が見えたようで、けっこう面白く見せてもらった。
長くブログを続けていると、色々な予期せぬことが起きる。この11月6日、突然、当ブログの訪問者数が652人に跳ね上がった。いつもは一日の訪問者数は200人前後で、300人を越えることはめったにない。
驚いて、アクセス解析で調べてみると、「大角与左衛門」を検索してたどり着いた人が多かったようだ。おそらく6日の夜、放映されたNHKの大河ドラマ「真田丸」で、「大角与左衛門」というマイナーな人物が出て来て、それが検索されたのだと思う。(自分には、大河ドラマを視聴する習慣がない)「駿河土産」という古文書の解読で、「大角与左衛門逆心の事」という話あり、そこがヒットされたのであろう。次の11月7日も596人と続き、同8日339人、9日はもう通常のペースに戻った。
今日のブログもアクセスが増えるだろうか。
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肺炎球菌ワクチンを接種した

考えてみれば、この処、毎年同じ花を撮り、ブログに載せている気がする。このフヨウだけでなく、お馴染みの花がたくさんある。
今年、70歳になって、医療で二つのことがあった。一つは医療費が3割負担から2割負担に軽減されたことである。これは大きい。もう一つは肺炎球菌ワクチン接種の補助が市から出て、3000円の負担で受けられることである。この頃感じるのは、年を取って、得することも多いことである。電車の優先席に最近になって抵抗なく座れるようになった。
人の最終的な死亡原因で、おそらく最も多いのは肺炎であろう。女房の同級生も肺炎で一ヶ月以上入院していたという話を聞いた。接種を受けて置こうと思い、昨日、S医院へ行った。肺炎を引き起こす原因球菌の20~40%で、効果がある。たとえ発症しても軽微で済むと、医師から説明があった。接種すれば完璧というわけではないようだ。もっとも、劇症化するものには効くらしい。効果は5年。5年経ったら効果が薄れる。その後は、補助が出るのかどうか、そのときになってみなければわからない。医師も先のことは5年後に考えればよいと、いたって暢気である。(S医院は島田の医院で、前に掛かっていた開業医より、若い医師である)
看護師さんが、薬に貼られたラベルを見せて、ワクチン名と使用期限が17年の1月までであることを確認させ、了解を求める。薬を間違えないためのマニュアルで、最終の意志の確認であろう。ラベルの文字は、自分はよく見えたが、老眼では困難なほど、小さい文字であった。利き腕を尋ね、アレルギーはないか、アルコールで拭いて赤くなることはないか、など質問をして、左の腕をアルコール消毒する。
「ちょっと痛いですが、すぐ済みますよ」(目を背けていたので、この後はイメージである)やおら、注射器を逆手に持ち変えて、反動を付けて、二の腕の筋肉へぶすり。「終わりました。今日、お風呂は入っていいですが、揉まないようにして下さい」
定期的に検査のために血を取られることはあるけれども、筋肉注射は大人になってから受けた記憶がなかった。インフルエンザの予防接種もしたことがないし、海外渡航の際、予防注射が何かあっただろうか。
帰りに予防接種手帳を頂いた。何に使うのかと聞けば、インフルエンザワクチンなどの接種の際に、出すように、また、5年以降の再接種の時に必要になるので、大切に保管するようにと言う。
夜、寝がえりを打って、左の二の腕が下になると、痛かった。痛みが取れるには二、三日掛かるらしい。気になる人は大殿筋に打ってもらうらしい。細い腕よりも、その方が予後が良いのだろう。
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ブログの力(「かさぶた日録」10年にあたって) 4

今朝のことである。夜の遅い自分はまだ寝ていた。ふと目が覚めて、玄関に誰か来て、女房と話しているのが聞こえた。様子では、金谷コミュニティ委員会のSさんであった。いつも郷土の資料が手に入ると持ってきて下さる。3回ほど書き込んだ「ブログの力」のことを女房と話している。
金谷には合併前に町づくり百人委員会というのがあって、義父もその中に入っていたようだ。「一豊堤」をもっと顕彰すべきだとの思っていた義父は、百人委員会にそのことを話した。専門家も集る委員会では、山内一豊が天正の瀬替えに係わったという記録は全くない。一方、中村一氏が天正の瀬替えを行なった記録は吉田町へ古文書が残っているらしい。山内一豊が掛川藩主だったのは4年ほどで、そんな余裕はなかったのではないかと言った趣旨であった。
その4年という話に引っかかった。一豊が掛川城主であったのは、家康が江戸入府と同時期、天正十八年(1590)から、土佐へ移封になる慶長六年(1601)までのほぼ10年である。天正の瀬替えが十八年だとすると、十年はあった。中村一氏とは、かつては共に秀次の宿老を勤めた仲で、隣藩として藩境の大工事について、話がなかったとは考えにくい。瀬替えと堤は一連の工事で、堤が出来て初めて瀬替えの効果が発揮できるわけで、10年以上間を置いてから堤が造られたというのは、現実的ではない。
これだけの工事であるから、地元の住民たちが自普請で堤を造ったとしても、必ず領主に伺いを立ててから、築堤を行なったはずで、一豊が全く関わらなかった可能性はゼロに近いと思う。惜しむらくは決定的な証拠(古文書)がない。
合併前に存在した町づくり百人委員会というのは、何の目的で存在したのか、この件に関しては、疑問が湧いてくる。義父は金谷の町の成立に係わるような、金谷にとっては重要な史実が忘れられている。これを顕彰することで町おこしをしたいと考えたのだろう。百人委員会は史実(古文書)にないというだけで一蹴してしまった。それでは、百人委員会が行政の言い訳に作られた組織に過ぎなくなってしまう。少なくとも、そんな委員会内での経緯を町民に知らせてほしかった。
百人委員会が本当に町づくりを考えるならば、一豊堤のこと、どこまで判っていて、史実とするには何が足らないのか、しっかり調べ、町民に知らせて、証拠となる古文書をウォンテッドするイベントをやってみる位のことを実施しても良かったと思う。例え古文書が見つからなくても、町民が関心を持つことにはなったと思う。きっと、どこかにそういう古文書がまだ眠っていると思う。古文書解読の勉強をする楽しみには、いつかそんな古文書に遭遇できるのではないかという期待もある。
ともあれ、「山内一豊」と我々は普通に呼んでいるけれども、「一豊」は諱といって、生きているうちは秘されて、呼ばれることはない名前であった。一豊は、通称、伊(猪)右衛門、又は対馬守(後に土佐守)と呼ばれていた。本当の名前を公表すると、その名前で、呪いをかけられる。それを恐れたからだという。一豊は土佐に移って4年後、慶長10年(1605)に亡くなっている。だから一豊という名前はこの地の人たちは知らないわけで、当時「一豊堤」と呼ばれたことはありえない。江戸時代には藩主にはばかって、わざわざ旧藩主の名前を付けることはしなかっただろう。そう考えれば、それが極最近の命名であることは見え見えである。
「出世大名家康くん」が行政の全面的後押しで、ゆるキャラグランプリを取る時代である。杓子定規な行政は流行らない。
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ブログの力(「かさぶた日録」10年にあたって) 3

新年は穏やかに明けた。世界的なテロの脅威も、今のところニュースにはなっていない。
写真は、今や当地の歳時記には欠かせない、島田市大代の王子田会の手になるジャンボ干支の写真である。年末に出掛けて撮影してきた。今回で21回目になるという。写真を年賀状の図柄に使う人も多い。今年は特に猿の一匹が五郎丸のポーズを取っていて、話題を呼んでいる。
長く続けることは、それだけで存在感が増すと思う。この「かさぶた日録」も丸十年、続けてきた。最初は、2006年1月1日、娘と大井神社へ初詣でに行った話から始まった。十年の間には、色々なことがあったが、現在3,593回を数える。10年で割れば、平均、年に6日ほどしか休載していない計算になる。今や生活のリズムに、組み込まれてしまっているから、それほど重圧ではない。ただ、健康で無ければ続けられなかっただろうから、健康に感謝である。
当初は写真が小さかった。ネット環境で、写真が大きいと表示に時間がかかるという事情があり、自重していた。その後、段々ネット環境が調うとともに、写真も大きくしてきた。昨年の暮から更に写真を大きくするようにした。やはり、写真が大きいと迫力を増す。
「ブログの力」という題で書いている。極ローカルな話であるが、ブログで自分の思いを書いていると、いつの間にか、その思いが叶うことを、10年の間に幾度か経験した。「一豊堤」の話もその1つだが、そのいくつかを挙げてみる。
2006年3月27日の記事で、大井川鉄道のSLが帰りは機関車がバックする形で、帰ってくるのを見て、金谷にターンテーブルがあれば、往復ともに機関車が前を向いて走れるから、是非金谷にもターンテーブルを設置すべきだと書いた。もちろん大井川鉄道の経営が厳しく、そんな余裕がないことは承知していたが、つい、筆がすべり、「お尻を向けて走るのは、お客様に失礼ではないか」と書いた。
さっそくお叱りのコメントが入り、「そんなに思うならあなたがお金を出せばよい」とあった。これはまずいと、少し語調を改めたことを覚えている。それから5、6年して、町の予算が付いて、観光資源のひとつとして、金谷にターンテーブルが出来ることになった。今では往復ともに、普通に前向きに走っている。「機関車トーマス」もターンテーブルが出来て、実現したものである。もちろん、このブログが発端で、町の予算が付いたわけではないだろう。同じ思いの人がたくさんいた結果だと思うが、自分のブログもその一つであったと思いたい。
(さらに続く)
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新年明けましておめでとうございます。
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ブログの力(「かさぶた日録」10年) 2


(荒らされた花壇と、ネットを張った花壇)
昨日の朝から材料を買ってきて、扇型の花壇を作り、頂いた花の苗をぎっしり植えた。今朝、花壇がめちゃくちゃになっているのに気付いた。夜中に野良ネコが来て遊んで行ったようだ。新しく入れた土はふかふかで気持ち好かったのであろう。今朝、直して周りに網を張った。
(昨日の続き)
「一豊堤」の件は決着したように思ったが、それでは、どうして公的機関までが、その堤のことを「一豊堤」と呼ぶようになったのだろうか、という疑問が残った。
いったい何時からから「一豊堤」と呼ばれるようになったのか、手っ取り早く、ネットで検索してみた。
最初に検索されてきたのは、掛川市の関連HPのようで、「一豊と掛川 その4」で、「この堤は現在も地元の人達に、一豊堤(横岡堤)と呼ばれ、石碑が建てられ、大切にされています」という記述であった。これを読んで、中村先生はその石碑に「一豊堤」と記されていると早合点されたのだろうと思った。
次の検索では、2006年3月19日の「かさぶた日録」が出て来た。「一豊堤」について、自分も書いていたのである。その頃、NHKの大河ドラマ「功名が辻」で一豊が扱われていて、それにちなんだ記事で、以下のように「一豊堤」を紹介している。
志戸呂堤とか横岡堤といわれているが、藩主の名前をとって一豊堤と言われることもあるようだ。
ネット上ではこれがもっとも古い「一豊堤」の記事のようだ。自分も女房も「一豊堤」のことは義父に聞いていて、当然、一般に言われているのだろうと信じて疑わなかった。義父は自分でネーミングしたのか、誰かから聞いたのか、今となっては判らないが、誤りを広めた元凶は、顕彰碑ではなくて、この「かさぶた日録」だった。
ブログの力は恐るべきである。「一豊堤」は、もういくら否定しても、定着した名前として、消すことは出来ないだろうと思う。
義父がどうして「一豊堤」にこだわったのだろう。金谷の町は、天正の瀬替え及び一豊堤によって、大井川の川原だった一帯が利用できるようになり、開発されて出来た町である。ところがそのことは、町民にすら知られていなかった。だから、顕彰碑を建てたいと思った。その際、堤の名前が「横岡堤」や「志戸呂堤」では、その物語が見えてこない。「一豊堤」と称することで、物語が大きく広がって見えてくると考えたのではなかろうか。
同じ理由で、その後、様々なところで「横岡堤」や「志戸呂堤」ではなくて、「一豊堤」の名前が使われるようになったのだと思う。歴史的事実を曲げてはならないというのであれば、2006年、NHKの大河ドラマで「功名が辻」放送がきっかけで、地元で「一豊堤」と呼ぶようになった、と記せば、これが歴史的事実になるであろう。
(つづく)
ブログ10年目の一年、大変お世話になりました。来年はいよいよ古来稀なる齢を迎える。どんな年になるであろうか。
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ブログの力(「かさぶた日録」10年) 1

12月5日、「金谷の歴史いろいろ」と題した中村肇氏の講演会に出席したことは、このブログで触れたが、講演の中で、話が天正の瀬替えになったとき、気になる発言があった。
地元の人から、天正の瀬替えについて顕彰碑を建てたいが、駿河山の切り割りと同時に、金谷側に堤が作られた。当時の掛川藩主は山内一豊だったから、現存するその堤を「一豊堤」と呼びたいが、歴史的にどうであろうかと、尋ねられた。その堤は、志戸呂堤とか横岡堤と呼ばれてきたが、歴史的に「一豊堤」と呼ばれた事実はないと答えたが、その後、顕彰碑に「一豊堤」と記してしまったようで、以降、公的な機関までが、その堤のことを「一豊堤」と呼ぶようになってしまった。後世に残る石碑で歴史をゆがめるのは、困ったことである。
実は、碑を建てたのは、誰あろう、亡くなった女房の父である。義父も長年教師を勤めて来た人だから、そんな勝手なことをするとは信じ難かった。さっそく、横岡に建つ碑を見に行った。横岡の旧道沿い、横岡水神社の石段左側に石碑は建っている。現代文で書かれているから、そのまま読める。
中村一氏、山内一豊 顕彰
天正18年(1590)駿河領主中村一氏が駿河山を切り割り、大井川の流れを駿河側に替えた。(現在の牛尾山を駿河山相賀山とも言う)掛川藩主山内一豊は堤防を築き、五和、金谷河原を開き、黄金の波打つ美田を造成した。これを天正の瀬替と言う。
追補11年間の東海道(新宿の地名)
慶長9年(1604)大井川の洪水により、田地は押し流され一面河原と化した。島田の北側山地沿いの元島田に宿を移し、元島田から片瀬、旗指、河原口、伊太村、笹久保を通り、大井川を渡り、牛尾を抜け、竹下、新宿を通り、掛川坂または観音寺坂から行田原に登り、ここから御林を通り日坂に出るコースが、元和元年(1615)までの11年間、正規の東海道として利用された。元和元年には元島田から島田宿に復帰し、翌年元島田と野田村境に建てられた代官所を、宿の中央に移した。
平成七年五月 贈 金谷町北川茂
何度、読んでみても「一豊堤」とは、一言も記されていない。中村先生は、この碑を自分の目でご覧になったわけではないようである。義父は中村先生の話を聞いて、納得して「一豊堤」の表示を断念したのだろう。この件に関しては、亡き義父は全くの冤罪である。いまや反論できない義父に代わって、義父の名誉のために発言しておかねばならないと思った。(明日へ続く)
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新年明けましておめでとうございます
新年明けましておめでとうございます。

(今年の年賀状)
今年の巨木は掛川市八坂の「事任八幡宮のクスノキ」である。事任八幡宮は旧東海道の沿道に鎮座されて、枕草子に名前が挙げられているほどの古社である。長年通った会社の途中にあって、何度か訪れたことがあるが、いつも静寂の中にある社で、静かに朽ちて行くだけかと思っていた。ただ、クスノキとスギの巨木があり、それだけが古社の風格を残していた。
何ヶ月か前に参拝して、随分整備がされていることに驚いた。今注目のパワースポットに取り上げられて、実入りが増えたのかと、ひがめで見ていた。賀状のための撮影に行って、神主さんと少し立ち話して、まず神社側のお参りしてもらう環境を整えようとする努力があって、その後に、元々あったパワースポットとしての認知がされ、皆んなの注目を集めて、参拝者が増えてきたという流れであることが知れた。
その一例で、駐車場側から小さな裏山を越えると逆川にそった「ことどい(語らい)の里」という小公園が整備された。龍神社という新しい祠があり、そこから下りた逆川には、神職が禊を行う禊場があると、神主さんが説明してくれた。たしかに、小さな立て札だけでは訪れる人もない小公園で、誰にも邪魔されない語らいの場所である。
参拝者が増えたと言っても、観光バスが着くような神社ではない。まだまだ穴場で、静かな初詣が出来るのではないかと思う。

(今年の年賀状)
今年の巨木は掛川市八坂の「事任八幡宮のクスノキ」である。事任八幡宮は旧東海道の沿道に鎮座されて、枕草子に名前が挙げられているほどの古社である。長年通った会社の途中にあって、何度か訪れたことがあるが、いつも静寂の中にある社で、静かに朽ちて行くだけかと思っていた。ただ、クスノキとスギの巨木があり、それだけが古社の風格を残していた。
何ヶ月か前に参拝して、随分整備がされていることに驚いた。今注目のパワースポットに取り上げられて、実入りが増えたのかと、ひがめで見ていた。賀状のための撮影に行って、神主さんと少し立ち話して、まず神社側のお参りしてもらう環境を整えようとする努力があって、その後に、元々あったパワースポットとしての認知がされ、皆んなの注目を集めて、参拝者が増えてきたという流れであることが知れた。
その一例で、駐車場側から小さな裏山を越えると逆川にそった「ことどい(語らい)の里」という小公園が整備された。龍神社という新しい祠があり、そこから下りた逆川には、神職が禊を行う禊場があると、神主さんが説明してくれた。たしかに、小さな立て札だけでは訪れる人もない小公園で、誰にも邪魔されない語らいの場所である。
参拝者が増えたと言っても、観光バスが着くような神社ではない。まだまだ穴場で、静かな初詣が出来るのではないかと思う。
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