平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
新年明けましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。
いつも「かさぶた日録」ごらんいただきありがとうございます。
今年も皆さんにとって良い年でありますように、お祈りします。
今年も、よろしくお願いします。
「かさぶた日録」も数えてみれば14年目に突入です。こうなったら、どこまで続けられるか、皆さんが読み終えるのと、自分が書き終えるのと、の勝負です。
イノシシといえば、その出没が我が家に段々近付いて来て、すぐ前の道まで足跡見つかり、我が家の、裏の畑に入るのは、時間の問題のような気がします。これは有り難くない猪です。
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高校同窓会の帰郷の顛末 5

今朝、五時起きで、伊勢の義姉さんの一周忌の法事に、息子の運転で行って来た。帰りは、何十年振りかに、伊勢湾フェリーに乗船した。答志島、菅島、神島など、昔通りであった。
テニスの全米オープンで、大坂なおみさん(20才)優勝のニュースを、帰路の息子のスマホで初めて知った。テニスの四大大会で、日本人として初めての快挙である。また試合後のインタビューが、飾ることなく、素晴らしかった。それにしても、優勝賞金がすごい、アメリカンドリームである。
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(昨日の続き)
一夜明けて、九月四日、危惧していたことが現実になった。早々とJR特急の運転見合わせに始まり、静岡へ帰る手段が次々に絶たれた。途方に暮れて、実家に泊めて貰うべく電話をした。今回は四日には帰るつもりで、実家への宿泊は予定には無かったが、緊急事態だから勘弁してもらった。
Yoo氏は、レンタカーを借りてでも帰るというので、城崎で別れて、自分はブドウ狩りをするというグループの誘いに乗って出掛けた。ぶどう園は台風接近で閉園していたが、前からの予約だからと、受け入れてもらった。その場で食べられるのかと思ったが、ぶどう棚から、紙袋が掛かった房を、鋏で二房収穫するだけで終った。雨も降って来て、早々に引き揚げた。実家への手土産にぶどうを購入して、豊岡に帰る人に同乗して、実家に行った。
一寝入りした夕方、恩師夫人から電話を戴いて、今、Yoo氏がこちらに来ていて、今夜泊るので、「あんたも来んせい」とストレートなお誘いがあった。もう実家に腰を落ち着けてしまった後なので、断るしかなかった。結局、Yoo氏は手段が尽きて、昨日誘われたばかりの、恩師宅の宿泊を余儀なくされたようだ。
その夜、ニュースで、徳島に上陸した台風21号が紀伊水道から大阪を直撃して、とんでもない被害をもたらしたことを知った。テレビで、駐車場の車が、強風に、木の葉のように転がり、舞い飛ぶのを、初めて見た。大阪国際空港は、高潮に滑走路が海水に浸かり、また、連絡路に、強風に流されたタンカーが激突し、陸の孤島ならぬ、海の孤島となり、何千人もの人が空港で一夜を明かすことになった。そんな大阪に、レンタカーで帰ろうとしたYoo氏、レンタカー屋に断られて正解だったと思った。
台風はその日の内に日本海へ抜けて、台風の西側になった豊岡では、風雨ともに、強くならないままで終った。翌5日、駅で偶々、Yoo氏と出会い、途中まで一緒の電車で帰った。
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高校同窓会の帰郷の顛末 4

午後、「駿遠の考古学と歴史」に出席した。「天澤寺殿三百年記録」の5回目(最終)の解読原稿をST先生に渡す。その折りに、「南部郷土史大学だより」に、今回の解読を終えた感想を書くようにと、依頼を受けた。依頼は拒まないと決めているから、それも勉強と考えて受ける。二千五百字から三千字位の原稿量となるだろうか。
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(昨日の続き)
Yoo氏が来て、今聞いた話だと断わり、若くして亡くなったYY君と、仕事がこれからという時に亡くなったYT君が、奇しくも同級生の同じ女性に好意を寄せ、交際をしていたらしいという情報をもたらした。あの時代、毎日顔を合わせながら、そんなそぶりも見せなかった。いったいどういうことなのだと、Yoo氏と、その女性を呼んで、真偽を確かめたところ、YY君からは一度お手紙は頂きましたが、交際はお断りしましたとの返事であった。一方、YT君からは卒業してから同様のお手紙を頂きましたが、こちらもお断りしましたとの返事であった。亡くなった二人からは、真偽の確認は今では出来ないけれど、余りに早く亡くなった彼らに、交際が事実であったとしたら、懐かしく話題に出来ると思ったのだが、もう半世紀も昔のことで、これ以上、今さら追及も出来ない。本人がそう云うなら、そうなのだろうと思った。
二次会も終え、温泉に入った後、6人部屋で色々話をしているうちに、議論が沸騰して、久し振りに厚く語りあい、皆んなが寝に就いたのは三時を回っていた。半世紀前には、よく数人集って、夜を徹して議論したことを思い出して、まだまだ熱さは消えていないと思い、楽しかった。
何れも議論のための議論なのだが、内容には半世紀前にはふんだんにあった色気が全く無い。議論の一つを取り上げれば、自分のお遍路の体験で、遍路途中で自分に向って拝まれてしまったこと。途中、何度も御接待として金品を頂いたこと。自分より余程貧しく見えるお年寄りが、千円札の皺を伸ばしながら御接待だと言って出す。歩いているうちに、荷が肩に堪えて、知らず知らず、不要なものを自宅へ送り返したりして、減らしている自分に気付き、これは一種の悟りだと思ったことなどを話した。
一人は、自分は余程歩き遍路に行こうと思ったが、そのお接待がどうにも我慢がならないから、未だに出掛けないでいる。自分が施しを受けるのが、何とも気分的に耐えられず、何とも嘘くさい。一人は、自分には、今は亡くなった師匠と頼んだ禅僧がいて、何度も座禅を組み、公案を出されて悶々とした経験がある。だからお遍路とも通ずるところがある。しかし禅は自力本願の仏教だから。ただ彼は一方で腹にインシュリンを打ちながらの発言で、何とも物凄い。一人はキリスト教も仏教も、所詮偶像崇拝ではないか。偶像崇拝を自分は認めない。しかし、偶像崇拝ではない宗教はイスラム教位ではないかと思った。
その他、学生運動にのめり込んで行った同級生のこと。いわゆる八鹿高校事件のこと。中学時代の先生が授業を行うに、今から思うに、何と自由奔放であったかという話。自分が話したのは、授業中、横溝正史の「八つ墓村」の推理小説を語って、一回では済まず、語り終えるに次の時間まで掛ったという、嘘のような実話を話した。今ならば、たちまち非難轟々になっただろう。外の授業は一つとして覚えていないが、この授業は、半世紀経ったいまでも、怪談話でもするような先生の表情まで、ありありと思い出す。
その後、朝までぐっすり寝て、気になるだろうと思ったいびきにも、悩まされることも無く済んだ。
(明日に続く)
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高校同窓会の帰郷の顛末 3

午後、静岡に行き、駿河古文書会に出席した。車から降りたところで、驟雨に襲われ、折り畳み傘しか持たなかったので、小やみになるまで待った。いよいよ秋雨前線の到来のようだ。
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(昨日の続き)
OSさんに、恩師宅から駅まで送ってもらい、同窓会会場に向かった。電車の時間をチェックしていなかったので、待ち時間が一時間近くあり、バスで城崎に向かった。円山川の左岸を走り、やがて対岸に玄武洞が見えてきた。学生のころ、ここを舞台に、小説を書いたことを、ふと思い出した。もう半世紀も前のことだ。城崎温泉駅からタクシーに乗り継ぎ、会場の招月庭に向う。
明日、関西上陸必至という、強力台風21号を危ぶみ、キャンセルもあって、参加者は60数人と、少し寂しい同窓会であった。恒例の物故者名の発表も、全体の一割強となった。あの時代の空気を共に吸った、懐かしい友の名前が呼ばれる度に、その面影が浮かんだ。もちろん若い頃のそれだ。二年毎に同窓会を行なうと云うが、年々、物故者は増えていく。何とか、ここで名前を呼ばれないように、有りたいものだ。
くじで、GHさんが同じテーブルになり、最初少し話した。この2年の間に、旦那を助手席に乗せて運転中、自損事故を起こし、エアバックが作動して、あばらを何本か骨折したという。寝ていた旦那は無傷だったようだ。二年前の同窓会で進呈した「四国お遍路まんだら、ふたたび」の感想が出せなかった言い訳ようだったが、当方は渡したことも忘れていた。
同テーブルのTN君は10年前から米作りをしていて、「こうのとり米」を作っているという。それ以前から、「こうのとりの郷」でお手伝いに、写真やビデオを撮ったりしていて、「こうのとり米」の米作りの仲間に入ったという。冬から春にかけても、田圃に水を絶やさないようにして、減農薬、有機肥料に取り組み、こうのとりの餌になる小魚やドジョウ、蛙などと増やしながら、人にも安全安心な米作りである。一番大変なのは、除草剤を一切使わないことだという。田の草取りにさすがに人手だけとはいかず、エンジン付きの田の草取機を使っているが、今に乗用型も出来るらしい。野外のこうのとりも増えて、そのように育てた蛙なども、たちまち食べられてしまうらしい。この地域でこうのとりを育てるのも、そろそろ数が限界で、どんどん全国に取り組みが広がって、豊岡で育ったこうのとりが他所で子育てするように、早くなってほしいという。
同窓会の宴も、弥々たけなわになって来たようだ。
(明日に続く)
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高校同窓会の帰郷の顛末 2

それが元で亡くなられた。最後は肺炎。)
今朝、起きると、未明の地震のニュースで、テレビが騒いでいた。北海道に震度6強(後に震度7に訂正)の地震があったという。北海道でこれだけの巨大地震は始めてだという。まだ、台風21号が大阪地方に大被害をもたらしたばかりだというのに、人々の関心は一気に北海道に向いてしまった。過去の歴史を見れば、このように天災が打ち続く時は、改元をしたという。来年の改元が待ち遠しくなってしまう。未来の日本人は、平成の年号を以って、年号名に反して、実に災害の多い時代だったと、語るのであろうか。
一日、故郷から帰るのが遅れて、町内の同じ班で親しくさせて頂いたMMさんが亡くなられた。昨日がお通夜、今日がお葬式であった。家族葬だというが、会葬は各自の判断で、と聞いていたので、お葬式に出席した。近所では自分一人であった。後で聞けば、皆んなはお通夜に出席したという。最近始まった家族葬にも、色々あって、特に近所ではどうお付き合いすればよいか、しきたりが確立しておらず、戸惑うばかりである。
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(昨日の続き)
恩師が亡くなられる少し前に、6年A組の最後の同窓会を、恩師のお宅で、故郷在住の仲間に声を掛けて行ったと聞いた。その時の写真を見ると、10数名の同級生がいた。声を掛けてくれれば、遠くからでも駆け付けたのに、と残念に思った。
NK先生は、永年の教師の間に、多くのクラスの担任をされて来たが、教師を終えて30年、未だにお宅に顔を出し、集まってくれるのは、6年A組だけだと、夫人はおっしゃる。それもこれも、先生を慕ってというよりも、夫人が一緒に、仲間になってくれたからだと思う。どうやら、6年A組だけが、夫人との交流が深くて、こんなに長続きしているのだと思う。先生はあの世で苦笑いだろうけれども、先生がいなくなっても、この付き合いは一生続くのだろうと思った。
話題は昔話になった。中学になっても、学校帰りに、しばしば先生宅に立ち寄って、夕方まで遊んだ。いつも、先生が帰宅されるのを機会に、重い腰を上げて帰ったものであった。五右衛門風呂に入ったり、何日か子供たちだけで留主番を任されたり、座敷で相撲を取り床板を壊したり、裏の畑で胡桃やグミを採ったり、畑の隅で土器を焼いたり、いろんな悪さもし、体験もさせてもらった。それを御夫婦して、何と大らかに許して下さったことか。いつかこの体験を、作品に書いてみたいと思ったりする。(明日に続く)
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高校同窓会の帰郷の顛末 1

9月3日、高校の同窓会で帰郷した。本当は昨日4日に帰ってくるはずであったが、帰りが一日遅れた。よって、4日はブログの投稿が出来ず、久し振りに休むことになった。その辺りの顛末を含めて、この3日間について記そう。
帰りが一日遅れた原因は台風21号である。4日に、強い台風が、たぶん故郷豊岡市辺りを通るという情報は、前から得ていた。かと言って約束をキャンセルすることは考えなかった。ただ、同窓会の翌日、Yoo氏と、3月に亡くなられた、小学校6年A組の担任だった、恩師HK先生のお宅の弔問は、難しいと思われた。それで、弔問を一日早め、出発時間を早めて、同窓会前の3日の昼間に行くことに変更した。恩師のお宅への連絡は、Yoo氏に頼んだ。
Yoo氏と京都で待ち合わせ、「特急きのさき」に乗車して、二時前には豊岡駅に着いた。金谷では風が涼しいほどであったが、乗り換えた名古屋、京都と気温がどんどん上がり、豊岡駅前では暑かった夏に逆戻りした。駅前にタクシーの姿が全くない。看板の電話番号を見て、タクシー会社に電話したが、あいにく皆な出払っていて、そこでしばらく待ってもらいたいという。会社は五つもあるのに、どうなっているのだろうと、Yoo氏と愚痴りながら、しばらく待たされた。
タクシーに乗り、その事を話すと、雨がほとんど降らない猛暑が続いてと、口を濁す。そうは言わなかったが、どうやら、猛暑はタクシー会社には福音で、なかなか忙しかったらしい。表を歩けば、命にかかわる40度近い暑さに、特にお年寄りはタクシーを使わざるを得なかったのだろう。何といっても、豊岡市は、時々その暑さでニュースになる土地柄なのだ。
恩師HK先生のお宅には、独り住まいの夫人が待っていてくれた。恩師が亡くなられて半年、夫人は元気を取り戻されているように見えた。挨拶もそこそこ、今、OSさんを呼んだから、追っ付け駈けつけると云う。
OSさんも、6年A組の同級生で、恩師HK先生が亡くなられるより少し前に、御主人を亡くされている。気持ちが通じるのか、たびたび先生のお宅を訪れて、話し相手になってくれているようで、根が明るいOSさんに励まされて、何時までも落ち込んではいられないと思うようになった、と恩師夫人から聞いた。亭主が死んで時間もあるし、近いから、しょっちゅう寄せてもらっている、とOSさんも云う。OSさんの御陰で元気を取り戻されて、本当によかったと思った。これからも度々顔を見せてあげて、何ならば、昼はここで摂ることに決めたらどう、とは無責任な冗談であった。(明日へつづく)
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運転免許証、紛失の顛末

4月29日、光明山古墳の現地見学会にNT氏と行ったことは、すでに書いた。
あの朝、車はNT氏が出してくれるようであったけれども、どうしようか少し迷ったが、もしかのためにと、ズボンのポケットに免許証を入れて出掛けた。それが徒となるとは、思いもしなかった。
現地見学会で頂いた資料を、折ってポケットにいれた。免許証を入れた同じポケットである。見学しながら、その資料をポケットから出したり入れたりした記憶がある。
光明山遺跡の見学会の後、内山真龍記念館(休館日であった)や本田宗一郎記念館などを見て、蕎麦屋で昼食を摂った。そのあと、建築設計が専門のNT氏が、その建物を見せたいというので、秋野不矩美術館に寄った。入館料が70歳以上は半額になると聞き、確か免許証を持っていたと、ポケットを探るが、ない。これが、紛失の経緯である。
帰宅後、近くの交番に行き、その旨を話す。聞き取ったあと、パソコンで内容を入力し、印刷した用紙にサインを求められた。警察も少しはIT化が進んだようだ。静岡の中部運転免許センターまで行けば、即日で再発行してもらえるが、島田警察署では二、三週間かかると聞く。しかも、その間は車の運転は出来ない。運転すれば免許証の不携帯になるという。それならば、静岡に行くしかない。
最後に、再発行後、旧の免許証が出てきたら、交番まで連絡下さいと念を押された。「免許証の予備がある方が便利だけどなあ」と、冗談を言ってみたが、お巡りさんには通じなかった。それにしても、お巡りさんは、どうして応対がそっけないのだろうか。犯罪者と対峙することが多いから、常に身構えて、隙を見せてはならないと、教育が徹底しているためであろうか。一般社会とは、一線を画するような違和感を感じるのは、自分だけではなかろう。
翌日、写真館に免許証写真を撮りに行く。車を運転できないから、ここまで送ってきた女房を、帰りは図書館に寄るから歩いて帰ると、返してしまった。写真館は家族写真の予約で、午後になるという。無駄足になってしまった。車の運転を禁じられると、何とも不便なことである。午後は、女房を待たせて、写真を撮ってきた。
今日、朝8時過ぎに金谷駅まで送ってもらい、電車とバスを乗り継いで、9時45分ごろに、中部運転免許センターに着いた。着くと同時位に受付が始まった。再発行を待つ人が10数人ほどいた。窓口を幾つか廻って、書類が整っていく。自分の年齢では老人に入るのだろう。丁寧に説明され、ややこしい所は指差して、口伝てにその場で書いてしまうようにと、親切であった。交番よりも、やや一般社会に近い。お昼まではかかるだろうと予想していたが、10時半ごろには新しい免許証が出来た。帰りも、バスと電車、更に金谷駅まで迎えを頼み、正午過ぎには自宅へ着いた。
この三日、車の運転を禁じられて、これは不便だと思った。自分の自由の半分を封じられたような気分である。いずれ10数年先には、免許を返す時期がくる。その時の気持を、この三日、否応なく体験させられた。
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平成30年、あけましておめでとうございます
あけましておめでとうございます。
旧年中は「かさぶた日録」ごらんいただきありがとうございます。
今年も皆さんにとって良い年でありますように、お祈りします。
今年も、よろしくお願いします。
なお、「きのさん」は今年、年男です。何とかもう一度、年男を迎えるまでは頑張ろうと思います。

(平成30年年賀状)
この杉は一本の杉だが、途中から幹が5本に分かれて、だから五本杉と呼ばれている。田野口の津島神社の杜には、外にも巨木が何本もあり、気持ちの良い場所である。
年賀状に巨木を取り上げるようになって、19本の巨木を取り上げてきた。中に欠礼した年もあったので、20年以上になる。これも30本まで続けられるだろうか。そんなことが気になるこの頃である。「冥途の旅の一里塚」とはよく言ったものである。
旧年中は「かさぶた日録」ごらんいただきありがとうございます。
今年も皆さんにとって良い年でありますように、お祈りします。
今年も、よろしくお願いします。
なお、「きのさん」は今年、年男です。何とかもう一度、年男を迎えるまでは頑張ろうと思います。

(平成30年年賀状)
この杉は一本の杉だが、途中から幹が5本に分かれて、だから五本杉と呼ばれている。田野口の津島神社の杜には、外にも巨木が何本もあり、気持ちの良い場所である。
年賀状に巨木を取り上げるようになって、19本の巨木を取り上げてきた。中に欠礼した年もあったので、20年以上になる。これも30本まで続けられるだろうか。そんなことが気になるこの頃である。「冥途の旅の一里塚」とはよく言ったものである。
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謹賀新年、年賀状図柄のこと

我が年賀状も、巨木シリーズのしてから、17回に及んでいる。始めたのが1999年(平成11年)からで、途中、喪中で賀状を欠礼したこともあった。二種類の図柄で使い分けた年もあった。巨木は存在するだけで、長寿を象徴する縁起物である。シリーズ化してからは年賀状の図柄に苦労することは無くなった。
今年の巨木、「将軍杉」のことを少し説明しよう。「将軍」と聞いて誰を思い起こされるであろうか。この「将軍杉」は、浜松市天竜区横川の武速神社境内に生育する。推定の樹齢は1000年以上といい、「将軍」は皆さんの想像を越えて、征夷大将軍、坂上田村麻呂を示している。
平安時代の武人坂上田村麻呂は、797年(延暦16年)、征夷大将軍に任じられて、蝦夷征伐へ向かう。その途上、この神社へ立ち寄り、戦勝を祈願した。その際に、神社の境内で食事を摂り、使ったスギの箸を地面に挿した。それが根付いて巨木に育ったと伝わり、「将軍杉」と呼ばれるようになった。
当然、樹齢は1000年以上、樹高は39メートル、目通り幹囲は10.6メートル、枝張りは27メートルに及び、静岡県下でも最大級のスギの巨木である。1952年(昭和27年)に静岡県指定天然記念物となった。幹回り10,6メートルはいつ調査されたものであろう。調査後、すでに20~30年は経っているだろうから、太さはさらに増しているのではないかと思う。
撮影は昨年の11月16日、渋柿を買い求めに天竜奥へ出かけたときに、走った道で偶然に再開して、写真を撮ったものである。
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暮れに神座のTさんが見えて、おミカンを頂いた。その時に、裏の畑に植わっていた「塚本系」のミカンの木が2本枯れてしまった話をした。30数年に渡って我が家にミカンを提供してくれた。甘くて、内皮が薄くて、孫たちが好んで食べてくれた。御近所に上げると、美味しいと褒められた。無くなってみると辛い。そのミカンの木はTさんのおじいさんが分けてくれたものであった。今もその品種はたくさんでなければ手に入るという答えだった。
中早稲品種だったが、どこでも育つわけではなくて、扱い難い品種だという。この畑で育っていたと聞いて驚いている。収量も、小さいものが沢山とれる年と、少なくて大きくなる年が交互にきて、扱いにくいのだという。それでも春に植えられるように、苗を確保してくれるとの話であった。話はしてみるものである。
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明けましておめでとうございます

明けましておめでとうございます。
大晦日の朝、粟ヶ岳へ写真を撮りに行くという、Oさん親子を、案内のため車を先導して、粟ヶ岳へ登った。そこで、巨大な雄鶏を見た。大代の巨大干支に倣って、今年から始めたのだという。ここの巨大干支は富士山とツーショットが自慢なのだろうと思う。
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