平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
「かさぶた日録」開始後、丸8年を達成!

今年は世界文化遺産の登録で話題を集めた。)
2006年1月1日、このブログ「かさぶた日録」は始まった。「かさぶた」の由来になった六十代にはあと半年となった、まだ50代の時であった。あれから、今日で丸8年になる。書き込み回数が実に2860回、文字数にして約250万字になるだろうか。2860回を8年で割ると357回となる。つまり、書かなかった日が、365日-357日=8日、つまり年に8日だけということを示している。
途中から、目標に置いていた七年も越えて、あと2年で10年、2年半で70代に突入し、「かさぶた日録」という標題がそぐわなくなる。その時、どうするのか。それはその時になって決めようと考えている。

(年越し蕎麦)
大晦日、女房が昨夜から風邪で熱が出て、夕方まで休んでいた。朝夕とムサシの散歩をして、帰郷している名古屋の娘(かなくんママ)と最低限の正月準備をした。夕方、熱が下がった女房も起きて来て、かなくん一家と年越し蕎麦を食べた。慌ただしく大晦日の一日も過ぎて行く。
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歳の暮に交通事故を目撃す

どこが出したものかは不明だが、日限地蔵へ行く道である。)
最近はムサシの散歩は、午後3時半ごろから30~40分行くことにしている。今日、ムサシの散歩も戻り道に入って、国道1号線バイパス下の道を歩いていた。高架のバイパスからは車の音が絶えない。何となく、バイパスの壁を破って、車が落ちて来たらどうなるだろうと、シミュレーションしていた。その一方で、そんな偶然は有り得ないと、心では否定している。
ムサシの散歩も、ムサシはあちこち嗅いだり、おしっこを引っ掛けたり、すれ違う散歩の犬に反応したりと、なかなか忙しいのだが、こちらは案外閑なのである。
バイパスの下を潜って、少し上り坂になり、直ぐに見通しのよい丁字路に出る。後ろから軽のバンが来たので、ムサシのリードを短く持って、右へ避けて待つ。ムサシもこの頃は学習能力が出来て、車の通り過ぎるまで動きを止めるようになった。もっともいつ飛び出すか知れないので、リードで制御することを忘れない。
右から来た箱バンが左折のウィンカーを出して停まった。軽のバンは右折のウィンカーを出して停まった。その丁字路では、どちらも道幅が狭くて、2台がすれ違うのは無理のようであった。すれ違うには、軽のバンがバックして左へ寄せれば、左折した箱バンと何とかすれ違えられる。それしかないと思って見ていた。
ところが、箱バンは左折をやめて、丁字路をまっすぐに通り抜けようとした。一方、軽のバンは右折を左折に変えて、先に左折して、箱バンに道を譲ろうとした。2台の車が同じ方向に躊躇無く進んだために、まずいと思ったときには、ボコッという鈍い音がして、軽のバンは前側のバンパーを引っ掛けられ、剥ぎ取られて、1メートルほど下の畑に着地した。果樹が植わっていたが、それを避けるような着地であった。
さすがに箱バンは大きいだけに強くて、直ぐ先で停まった。幸いにも二人とも怪我はないようで、直ぐに車から出てきた。軽のバンはおばちゃんで、箱バンは青年だった。おばちゃんは剥がれたバンバーを拾って、どうしよう、困ったと、少し動揺している。青年はやってしまったというような顔である。
後は、警察、保険会社、モータースの仕事で、運転手同士の話し合いとなるであろう。まあ、目撃者としての自分は関係なさそうなので、ムサシの散歩に戻った。
この事故はお互いに譲ろうと思って動いた方向が、運悪く同じ方向になってしまった。ウィンカーを変えたのを、お互いに見落としたのであろうか。運転手同士のアイコンタクトはなかったのだろうか。歳の暮、気は急いても、交通事故には十分気をつけないといけない。
それにしても、今の交通事故は「ガチャン」ではなくて、「ボコッ」である。時代は変わっている。
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「やしゃらん」と今朝の小火(ぼや)騒ぎ

昨日の駿河古文書講座の中で「やしゃらん」という言葉が出て来た。その部分を抜き出すと、
一 井川上屋敷より、差し越され候、やしゃらん、利右衛門持参候、追って賃銭遣わし申すべく事
講師の話では、「やしゃらん」は樹木の上に着生する木で、ネットから印刷したと思われる写真を回していただいた。そこへたどり着くまで、大変に苦労されたという。ただ、なぜ井川から駿府の街へ、その「やしゃらん」がもたらされたのか、どんな効用があるのかが判らないとの話であった。多分、染料か何かに使ったものであろうと想像されていた。
自宅に帰って、昨夜、もっと詳しくネットで調べてみたところ、だんだん判ってきた。まず、「やしゃらん」はヤシャビシャクの静岡西駿、靜岡井川地区の方言だという。そのヤシャビシャクを調べてみると、
ヤシャビシャク(夜叉柄杓)
ユキノシタ科の落葉小低木。深山の古木などに着生する。葉は腎円形で縁にぎざぎざがあり、長い柄をもつ。4、5月ごろ5弁花が咲き、萼(がく)が花びらより大きく、淡緑白色。実は緑色で丸く、腺毛が密生。盆栽として珍重され、薬用にもなる。
ということが判った。ビシャクは柄杓のことではなくて、「ひさご(瓠)」が音変化したもので、ひさご → ひさく → ひしゃく、となる。
ひさごは
1.ユウガオ・ヒョウタンなどの総称。また、その果実。なりひさご。
2.ヒョウタンの果実を、内部の果肉を取り去って中空にし、乾燥させて容器としたもの。
3.水を汲むための器具。ひょうたんを縦半分に切って使ったところからいう。ひしゃく。
つまり、ヤシャビシャクの名前は、その小さな丸い実が「ひさご」に似ていることから命名された。似ているのは、その実なのか、容器のひょうたんなのか、水を汲む器具なのか、どれに似ているというのかは、命名者に聞くしかない。
今朝、10時半頃だった。消防自動車のサイレンが鳴り出し、それがだんだん大きくなって、前の道路を消防車がサイレンを鳴らしたまま何台か通った。何事かあらんと前の道路まで出てみると、近所の茶問屋の大きな仕上工場の一ヶ所から白い煙らしきものが見えた。近くまで寄って、消火栓にチャッキングしている消防士に聞いたところ、近所から火事らしいと通報があったと、とりあえず放水準備をしているという。余り緊張感が無かった。消防自動車からは、現場からの割れた声が情報を伝え続けている。
近所のOさんのお宅の前で、ご主人と話した。白い煙は時々見ることがあって、水蒸気かもしれない。今朝はそれが黒い煙になったので、近所の人がびっくりして消防署に通報したらしいという。白い煙もやや収まった屋上に防護服を着た消防士が見え、放水するとの現場からの声もあった。破壊して中に突入とかの声も聞こえ、太い縦樋から黒い水が勢い良く排水路に落ちてきた。そのうちに消火栓からの水は不要と言って来たから、火は消えたのだろう。消火栓が使われなくてよかったと思った。それを使うと、しばらくは水道が濁って使えなくなる。
操業中だったから、社内の消防隊で懸命に消火活動が行われていたのであろうと思う。大事にならなくて良かった。Oさんと、お話しながら、ふと「やしゃらん」のことを思い出し、Oさんに知っているかと聞いてみた。知っているよ、ここにあると、自宅前に見事に並んでいる小鉢の一鉢を示した。何のことはない、こんなところに「やしゃらん」があった。
写真に撮らせてもらおうと、デジカメを自宅から持ってくると、この一鉢、差し上げるという。今や絶滅危惧種に指定されている貴重な植物を、頂いてよいのかと思ったが、挿し木で案外簡単に増やせるという。(ネットでも2,000円弱で販売されている。)
Oさんはかつて電力会社に勤めていて、大井川の奥には仕事でしょっちゅう入り、伐採された木などから採取したもので、もうこゝで何十年も経つと話す。頂いた一鉢も挿し木してから10年経っているという。
「やしゃらん」が井川の方言で、正しくは「ヤシャビシャク」と呼ばれていると話し、この木はどんな効用があるのか聞いてみた。井川の人の話では、昔は猟師が、縁起物、あるいは神が宿ると考えたのか、狩にでる前に庭に植えた「ヤシャビシャク」に、ちょっと手を合わせて出かけると、良い猟が出来るといわれて、珍重されたらしいと聞いた。
ともあれ、この「ヤシャビシャク」に花が咲いたり、実がなったら、またこのブログで紹介しよう。
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念彼観音力と「唄入り観音経」

義父の三回忌が本日執り行われた。三回忌は身内だけの法事になり、女房の実家に観照寺の住職が出向いてくれて、法要のあと、お墓にお参り、お寺の位牌堂でも読経の中、焼香して終わった。
位牌堂で住職の読んだお経に、「ねんぴかんのんりき」というフレーズが何度も出て来て、遠い記憶を呼び起こした。お茶を頂いたときに、住職に今のお経は何というお経かと質問した。法華経の中の「観世音菩薩普門品第二十五」で一般に観音経と呼ばれる部分だと教えてくれた。
子供の頃の記憶が蘇ってきた。夜、茶の間のラジオから浪曲が鳴り響いていた。当時はラジオが日々の唯一の娯楽であった。家族の中で誰が聞いていたのであろう。はっきりしないが、子供の自分にもはっきりと届いていた。鍛えられた喉の歯切れの良い声だった。意味は十分に理解できていなくても、浮き浮きするような名調子であった。その中で、「ねんぴかんのんりき」というフレーズが何度も出て来て記憶に刻まれた。
浪曲の題が「唄入り観音経」という事は記憶にあった。しかし今日までの人生の中で、観音経というお経を意識したこともなく、観音経というお経があるのだろうと漠然と思っていたくらいであった。
夜、ネットで調べていくと、色々なことが判った。まずは観音経であるが、住職の言葉通り、法華経の一部で、文字数にして520文字の中に、「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)」というフレーズが、実に13回出てくる。「観音の救いを心から念ずれば」という意味で、それぞれ後ろに、「何々になる」という言葉が続いて、観世音菩薩の功徳が諄々と説かれていく。
「唄入り観音経」の浪曲師の名前が出て来なかったが、三門博だと判った。1937年にレコードに吹き込んだ「唄入観音経」は何と200万枚という空前の大ヒットになったという。検索するうちに、YouTubuでそのレコードのさわりが聴けることが判り、20分間聞いてしまった。
「遠くちらちら灯りがゆれる‥‥」という名調子で始まる話は、奥州の百姓甚兵衛が村の年貢50両を江戸の殿様に届ける途中に盗まれてしまう。どの顔して帰られようかと、隅田川に身を投げようとするところを、盗賊木鼠吉五郎に50両をもらって助けられる。発端の部分だけで、約20分、まだ観音経は出てこないから、「ねんぴかんのんりき」のフレーズも出てこないけれども、当時の我が家の茶の間の様子まで思い出されて、胸が詰る思いであった。
今聞けば、良く判る話しで、小学生くらいだった自分でも、理解できたのではないかと、思い直した。映像ですべてを見せてしまうテレビでは、想像力は働かせる余地がない。ラジオの浪曲でも、夜の暗い隅田川の橋の上で、2人が出会う。そんな絵が浮んでくる。想像力の豊かな人間を作るには、テレビではなくて、読書やラジオなど、情報が限られる中で想像する訓練が必要だろうと思う。
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主治医S医師に検診結果を聞く

午後、S医院に行く。主治医のようなもので、月に一回は顔を見に行くようにしている。3、4ヶ月に一回は、血液検査、心電図、胸部レントゲンをとってもらう。今日はその結果を聞いた。血液検査では、大部分の数値が良好になっていた。春は数値が良くなるのは、ある程度、想像していたが、案の定、良くなっていた。範囲外のものが二つ三つあるけれども、そんな心配なものはなかった。
年明けから2ヶ月以上、花粉症対策で、ベニフウキの緑茶を飲み続けてきた。あと一ヶ月は飲むことになる。ベニフウキといえども、普通のお茶と変わりがないので、健康に悪いはずはない。日頃はお茶をそんなにガブガブ飲まないが、この時期は花粉症を和らげたいので、無理しても飲んでいる。実はそれが血液検査の項目を改善させている。
検査項目の中で、血中鉄分の数値が基準値を下回っていた。S医師は低い理由が思いつかず、首をひねっていた。夏から秋にかけては正常値だったのに、今回だけが低い。上手く説明が出来ないようであった。あげくに、この項目は時々数値が間違って出ることがあると、検査の所為にしていた。帰宅後、気になってネットで調べてみたところ、お茶に含まれるタンニンが鉄分の吸収を阻害するため、血中鉄分が低くなるという記事を見つけて、納得した。検査結果は正しかったようだ。自分の身体はお茶の効能に正直に反応している。
心電図のグラフを見て、この山がもう少し高ければよいのだが、過去に何か言われたことはないかと聞く。昔から心電図検査では、毎回少しメモが付いていた。再検査というわけでもなく、気にもしていなかった。心臓鼓動の癖のようなものだろうと思っていた。まあ、特に異常値というわけではないから気にすることはない、という話で終わった。
胸部レントゲンでは、黒いところが空気の部分で、何も無いところ、白い部分が物があるところ、普通の感覚とは逆になっていると、説明してくれた。もののついでに、喫煙習慣のある人がかかる肺気腫というのは、レントゲンにはどう写るのかと聞いてみた。
S先生は、肺気腫とはどういう病気なのかを、絵を書いて説明してくれた。その説明で自分が理解したのは、肺は細かい粟粒のようなもので、その細粒から酸素を血中に取り込み、二酸化炭素を空中へ出している。肺気腫では、粟粒が隣同士でくっ付き、やがて境が取れて、より大きな粒になる。そんな現象が起きて、粒が段々大きく、少なくなっていく。それにつれて、肺機能が段々失われていく。喫煙習慣が原因で起きるCOPDの一つである。全体に黒っぽくなるらしいが、胸部レントゲンだけで診断は出来ないようであった。
S医師は、患者を待たせながら、申し訳ないくらい丁寧に、質問に答えてくれた。
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春の嵐、爆弾低気圧の後で

天気予報図に、はっきりと二つの低気圧が現れて、発達しながら日本列島と縦断して行き、東日本の海上で970ヘクトパスカルという、台風並みの強さに発達した。昔は「春の嵐」と呼ばれたが、昨今は台風並みの風雨と竜巻まで伴うので、爆弾低気圧という名前に格上げされた。今回、気象庁は早くから予報を出していたけれども、二人の死者をはじめ、多くの被害が出た模様である。昨夕から当地も嵐になって、荒れ狂っていたが、朝には風も止み晴れ間も見えてきた。
朝八時前には、掛川のまーくん一家が来る。名古屋のかなくん一家は、昨日名古屋からパパが来て、今日には名古屋へ引き上げるから、今日が孫たちがいっしょに遊べる最後の一日になる。
8時から地域のどぶ浚いがあって出役したが、30分もすると大粒の雨になったので、早めに終わった。昨夜来の雨に流されて、排水路の水は淀むことなく流れていた。
かなくん一家は島田のパパの実家へ行き、なぜか、まーくんもいっしょに付いて行った。あっくんとえまちゃんは残る。お昼にはかなくん一家にまーくんのパパも合流して、皆んなでうなぎを食べた。といっても、店屋物を取り寄せたのではなく、調理済みの冷凍食品を戻したものである。うなぎも資源不足で高騰しているから、しばらくは食べられなくなるであろう。
伊勢の長兄から電話があり、大丈夫かという。ニュースで牧之原市の一部に洪水による避難指示が出たと聞いて、電話をしてきたものである。そんなことがあったとは、知らずにいた。もう一つ、国道1号線バイパスの野田IC近くで土砂崩れがあり、通行止めになっていると聞いた。
午後、名古屋に帰る、かなくん一家を、まーくん一家と見送ってから、金谷宿大学の新年度の申し込みに行った。今年も「古文書に親しむ」と「駿遠の考古学と歴史」の2講座に申し込みをしてきた。両講座ともこれで六年目に突入する。帰宅すると、まーくん一家が帰るところで、これも見送る。
これで、1ヶ月半以上続いた、孫の一家との同居生活にピリオドが打たれたわけだ。まーくん一家に、次に会うのは夏休みだね、冗談をいう。もちろん、そんな風にはならないことは承知の上である。5月にはさっそく、義父の3回忌で、再び全員が集合することになっている。
夕方には空は晴れ上がったが、北西の風が再び強さを増し、冷え込んできた。風が止んでも霜になることはないだろうが、ムサシの散歩にはセーターを着て出かけた。
夜はムサシが久し振りにダイニングに上げてもらい、現在も隣の部屋に休んでいる。ムサシは今回は大きなストレスにはならなかったようだ。その分、女房が風邪を長引かせて、ずいぶん体重を減らした。
我が家では、娘の女児出産という大きなイベントが終わって、しばらくは静かな日々が戻りそうである。
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インフルエンザの季節

毎年のことなのだが忘れていた)
久し振りにS医院に行く。診察は2ヶ月ぶりくらいか。行っても血圧を測るくらいだから、何という事はない。医者に行ってインフルエンザでも貰ってきては大変である。だから、しばらく足を向けないようにしていたとS医師に話す。それは懸命だとS医師は頷いた。S医師も、この冬、インフルエンザに2度罹った。それでも予防注射をしているから、軽く済んだようだと話す。予防注射をすれば罹患しないわけではないようだ。
今年はインフルエンザはほぼ終わったのだろうかと聞くと、まだB型が発生していると、数個の検査片を見せてくれた。離れてうかがうに、小さなプラスチック容器に密封されているように見えた。何とか今年もインフルエンザには罹らないで終わりたいものである。
S医院の待合室で新しい体温計を見た。小さいピストル型の体温計で、看護師が患者の額に向けてかざすと、たちどころに体温が測れる。サーズとか鳥インフルエンザが流行ったとき、空港などのゲートで客の体温をチェックしていた赤外線装置があった。あれを小型化したものであろうか。待合室で何人か測られていたが、瞬間に体温が測れてまことに便利ではある。しかし、この体温計、よく知った医院などではよいが、額に照射されるのは、何とも不気味である。町中でされると、ついついホールドアップをしてしまいそうである。
ネットで見ていくと、香港や上海など、中国の空港で体験したという話がいくつか出ていた。日本では通路に大きな装置が設置されていて、通る人をチェックしていた。それならばそれほど抵抗感はないが、検疫でいきなり額に向けられて、びっくりしたという話がいくつか載っていた。その辺りはいかにも中国的な感覚である。銃規制があまいアメリカなどでは、恐怖感で固まってしまう人も多いだろう。なかなか採用されないだろうと思う。
市販されているものは、15000円位のもので、一家に一台あると便利かもしれない。接触しないでお風呂の温度を測ったり、ミルクの温度も測れる。もう少し高い温度が測定範囲に入れば、美味しくお茶を入れる湯温60度が測れて、面白い利用方法が出来る。
午後、息子が職場で発熱して、強制退去となり、早引けした。帰りにS医師に寄ってきたという。検査の結果、インフルエンザは陰性だったようだが、我が家には赤ん坊1人、幼児2名が同居中で、女房は息子を自室へ隔離した。酷くなるようなら、孫たちの引き上げる時期を早める必要があるかも、などと話している。何といっても我が家が社会に開けている窓は、ほぼ息子だけで、インフルエンザを持ち込むとすれば、息子が一番可能性が高い。
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志戸呂に熊が出たらしい

一転して寒さが戻り、昨日より最高気温が10度も下がったようであった。一方で黄砂は消えて、青空が見えた。車のフロントガラスは黄砂で真っ白であった。こんなに高低差が大きいとなかなか体調維持が難しい。東日本大震災からちょうど二年目の今日は、朝から追悼の1日であった。
夕方、島田市の同報無線で志戸呂で、クマの目撃情報が多数寄せられているから、十分気をつけるようにと、何回かくり返し放送された。この暖かさに冬眠からめざめて、餌を求めて里近くに出て来たのであろう。クマは一日に何十キロも移動するというから、この辺りで冬眠していたわけではないと思う。山に山菜など餌が増えてくれば、危険を犯して里へ出てくることはないから、この時期だけの出没であろう。ところで、志戸呂といえば、我が家から1~2キロの地区である。
先日、テレビで害獣駆除を引き受けるハンターが激減していると放映していた。年々ハンターが老齢化していくけれども、若い人がハンターにならないので、ハンター人口は減る一方だという。平和慣れして、若い人たちが銃で殺生するのを好まない。これは良い傾向なのだろうか。あるハンターは今やハンターが絶滅危惧種になってしまったと笑った。
江戸時代には、狩猟で生業を立てているマタギなどと呼ばれる猟師がたくさんいた。幕府や諸藩では、猟師たちに限定的に銃の所持を許可して、しっかりと管理していた。明治以後は、狩猟法の制定によって、娯楽のために狩猟免許をとって鳥獣を撃つ人々が増えた。その結果、鳥獣が激減して、猟師も生業が叶わなくなり、消えて行った。現在、絶滅危惧種と言われるハンターは、趣味で狩猟免許を持っている人々である。
日本の生態系の頂点には、かつては日本狼が君臨していて、生態系の秩序が維持されていた。猟師やハンターの増加によって、鳥獣の激減が問題となり、狩猟時期の限定、保護区の設定、天然記念物の設定などで、鳥獣の保護政策が行われた。保護政策によって、鳥獣は徐々に回復していった。
明治に日本狼が絶滅し、今またハンターが絶滅危惧種と化して、生態系の秩序が維持できなくなった。南アルプスでは貴重な高山植物が鹿の食害で失われているという。食害で禿山になっていく山々も出てきている。さらに猪や猿が里に出没し、作物を荒らして農家の営みを圧迫している。
狭い国土で、生態系の維持は、どうやら人が行わなければならないようである。現在は手間がないから、銃で殺した鹿や猪は山へ捨ててきているという。日本人はマグロや鯨に対する食の情熱を、鹿、猪、熊などにもかけて、それらをもっと食べるようにすべきである。狩猟が経済的にペイするようになれば、問題が解決に向かうように思うのだが。
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いよいよ眠い春がやってくる

午前中に雨も止んで、午後は晴れ間も出て来た。急に暖かくなり、春も近しを思わせる陽気になった。午後、幼稚園バスの停留所へ、まーくんを迎えに行く。10分ほど早く着いて、外はスギ花粉が舞っているから、車内で待機していた。先程から眠気を催していたので、ほんの少しと思い目を瞑った。
窓をトントンと叩く音に目を覚ました。ここはどこだと、瞬間思ったが、すぐにまーくんだと気がついた。目の前に園バスが着いて、園児を父兄に引き渡している。この何日か、迎えに来て、お祝いを言われたりして、まーくんのおじいちゃんと分かっていたので、父兄の一人が起こしてくれたのであった。そのままだと、まーくんは迎えがないものとして、幼稚園まで戻ってしまうところであった。
このところ、朝は8時前に起きて幼稚園に送って行き、午後2時半には迎えに行くことが続いていた。夜が遅い習慣は直らず、寝たりない分、午後イチ位に少し寝るようにしていたが、今日は読書の気が乗って、寝ないまま、まーくんを迎えに行った。午後一番の最も眠くなる時間帯で、この陽気である。少しの油断で寝過ごした。春眠暁を覚えず、夜型の自分にはつらい季節の始まりである。
それでなくても、花粉症の症状が出ると、気分もすぐれない。花粉の飛び方が「多い」くらいなら、目に花粉対策眼鏡をし、ベニフウキを飲んでおれば、何とか症状も出ないで済むのだが、「非常に多い」となると、ベニフウキだけではくしゃみ、鼻水など鼻の症状は止まらなくなってしまう。マスクで花粉を吸い込む量を減らせば、屋外に出ても、何とか鼻の症状は出ないように出来ることは実験済みなのだが、マスクをすると吐く息で花粉対策眼鏡が曇って、前が見えなくなるから、何とも厄介である。今のところ完璧な対策も見つからず、試行錯誤している状態である。
話しは変わるが、1ヶ月余り前に、ブルーレイディスクレコーダーを購入した。もっぱら、2時間推理ドラマを録画して見ている。見ることが出来る時間帯の番組も、録画してみている。再生してみれば、コマーシャル部分をとばして見られるから、2時間ドラマを1時間45分ほどで見終わることが出来る。
最近、録画してみる新たな効用を発見した。録画再生を寝転がって見ながら、ついつい居眠りをしてしまうことが多い。目を覚ますと、ドラマの筋は先へ進んでいて、訳が分からなくなる。そんな時には居眠りし始めたところまで戻って見直せばよいことに気付いた。そんな方法に気付いた結果、行ったり来たりで、2時間ドラマを2時間半ほどかけて見ることにもなる。
3月になれば春が一足飛びにやってくる。つまり眠い日々が続くことになる。女房は早寝早起きを言うが、夜型の生活は改まる気配がない。
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光回線で、「かさぶた日録」を再開

光回線が繋がったので、今日から「かさぶた日録」を再開する。
島田市の大井川右岸(西岸)、旧金谷町エリアにも、この春にようやく光回線が引かれて、我が家も光回線に移行した。その手続の中で、プロバイダーの回線変更を忘れていたために、土、日、月と3日間、プロバイダーとの接続が遅れて、ブログも休むことになった。今日、プロバイダーから通知が来て、夕方設定を終え、夜から繋がるようになった。
休んでいた三日間にも、かさぶた日録を覗いてくれた方が、それぞれ196人、151人、197人と、それまでとさほど変わらずにあって、それらの方々には申し訳なかったと思う。書き込む必要が無かった三日間、想像したほどには楽になったという感覚はなかった。それだけ、ブログを書き込むことが日常化していて、身に付いてしまっているのだと、改めて感じた。だから再開にも、抵抗はほとんどなく、今夜もすらすらと書いている。
光回線になった実感はまだ湧かない。ネットへつなぐ速度が少し速くなったと思う程度で、ゲームとか動画を使わない限り、そんなに速くなるものでもなさそうである。夜、息子が帰ってきて、試したところ、20分から30分掛かっていた、10メガバイトほどのデーターが10秒ほどで終わったと、その速さにびっくりしていた。私が使うパソコンが古くて能力がないから、そんなには速くならないのではないかという。いよいよパソコンも新しくする必要があるのかもしれない。
4人目の孫が生まれて、我が家へ来てからはや一週間になる。急に8人家族プラス犬一匹になって、大忙しである。女房は1日飛び回っている。自分もまーくんの幼稚園の送り迎えに、朝夕1時間づつかかり、ムサシの散歩に1時間を加えると、昼間の3時間は費やされてしまう。これはけっこう大変である。お宮参りまで、あと3週間ほど、この状態は続くようだ。
4人目にして、初めての女の孫で、名前の腹積もりはあるらしいが、正式にはまだお披露目がない。午後、かなくんの島田のジイジ、バアバが、お祝いを持ってきてくれ、顔を見て帰った。先日、かなくんの誕生日に名古屋へ出かけたときの写真をたくさん見せていただいた。
まーくんママと女房の4人で話が弾んでいるのを、脇で聞いていると、かなくんの赤ん坊のときの顔によく似ているという話の成り行きで、まーくんママと女房の言い方が、可愛いかなくんに似ていて良かったと言わんばかりの話しになっている。かなくんの島田のジイジとバアバに向けての言葉なんだろうが、かなくんも、まーくんやあっくんと同じ自分の孫なんだから、言い方が少し違うのではないかと思った。
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